自分が本当は何を感じていたのか、
何をしたかったのか、
わからなくなっている人、
多いですね。
これについては色々な切り口で見ることは
できるけれど、
今日は「境界線」という視点から
お話してみたいと思います。
「境界線」は、バウンダリーと言ったりしますが、
要は、自分と他の人との境を言います。
これが曖昧になっていると、
自分のことではないのに他の人のことまで
自分のものとして捉えてしまって、
肝心の自分自身がよくわからない状態に
なってしまったりします。
あまり健全ではない状態ですね。
たとえば、
他者の悲しみ、怒り、苦しみ、心配事なんかを
引き受けてしまうのがこれに当たります。
本当は、本人がそういうものを引き受けるのが
筋なのに、境界線を侵入して、他者のものを
引き受けようとしてしまうんですね。
また、引き受けることはしないけれど、
他者の境界線を踏み越えて、土足で荒らしていく
みたいなケースもあります。
色々な、不健全な境界線がありますが、
今回は他者の引き受けるものを
自分で引き受けようとしてしまう
ということについて書いてみます。
これを一言で言い表すと、
「自分のせいだ」
と表現できるでしょうか。
母親の機嫌が悪いのは、
あの人が私に辛く当たるのは、
子供の素行が悪いのは、
チームの仕事がうまくいかないのは、
ママ友が私に挨拶してくれなかったのは、
「自分のせいだ」
って思うんですね。
このブログでは、繰り返し
自分自身の責任を引き受けましょう
ということをお伝えしていますが、
そもそも自分と相手との境界線が
明確でないと、何が自分の責任なのか、
正しく識別できないでしょう。
なんでもかんでも引き受ければいい
というものではないのです。
そうやって、本来その人が引き受けるべき
責任を自分が引き受けてしまうと、
その人の学びと成長の機会を奪ってしまう
ことにもなります。
大切な人が苦しんでいたりすると、
つい自分が身代わりになってあげたいとか
思ってしまうこともあるかもしれませんが、
それは本人のためにもなりませんし、
何よりそれは、その人のためというよりは、
自分自身が大切な人が苦しむ姿を見る苦痛から
逃れたい、という自分本位な動機からの行為
ですから、決して美談ではないのです。
こういうケースで自分の責任は何か、
と言えば、
大切な人が苦しむ姿を見たときに、
自身の内に生じる感情です。
とても落ち着かない気持ちが浮上していて、
そういう姿を見続けるのは、
辛いものでしょう。
その辛さを受け止めるわけです。
これを感じるのが嫌で、
ついつい相手の苦しみを何とかしてあげたい
と思ってしまうわけですね。
でもそれは、筋違いの行動です。
まず自身の内に生じた感情の責任を
引き受けたうえで、もう一度
辛そうなその人を見てみると、
それほど居ても立っても居られない感じ
ではなく、落ち着いて冷静に
本当に助けが必要なのかどうかを
見極められるようになります。
そこで必要なのであれば、
やるべきことをやればいい。
そういうスタンスからの行動であれば、
必要以上のことをしなくなるので、
表面的に同じ行動であったとしても、
自分の落ち着かない気持ちを
落ち着かせるためのする利己的な行動とは
受け手も全く違った感覚を抱くでしょう。
何か押し付けられた偽善のような重さはなく、
エネルギー的にも、とても軽やかなんですね。
もし受け手が、利己的な動機からの行為を
心地良く受け取ったとしたならば、
それはある種の共依存関係を構築している
と言えなくもありません。
本当は、心地良いはずはないのですよね。
行為する側も、受ける側も。
そういうことをするほどに、
行為者の負担は増し疲弊していきますし、
受け手もますます自分の足で立つことが
できなくなっていきます。
そこに気づけないのであれば、
かなり歪んだ不健全な在り方をしている
と思った方がいいかもしれません。
他者の責任を引き受けようとするのは
なぜなのか。
そんな必要は本来どこにもないのです。
私は自分の責任を引き受けるね。
あなたはあなた自身の責任を引き受けてね。
それでまったくフェアな関係になります。
別に薄情でも何でもありません。
そこに罪悪感を抱くのなら、
その人は自分が引き受けるべき責任から
逃げているところがあるのでしょうね。
他者に自分の境界線を踏み越えさせず、
また、自分も他者の境界線を侵入しない
ためには、
まず自分自身の内側に生じる感情の責任を
しっかり引き受けることです。
それなくして、健全な人間関係は
築けないでしょう。
健全な境界線は、
自分と他者への信頼の表現でもあるのです。