よく、感謝をすることが大切だと言われますが、
色々うまくいかないことや満たされないことで
頭がいっぱいの時って、そう言われても
なかなか素直に感謝できないものです。
もちろん、感謝をすることが大事なのは
重々頭ではわかっているけれど、
心の底から湧き上がるような純粋な感謝が
できない、というお声もよく聞きます。
しないよりはした方がいいのだろうけれど、
頭でわかった風に表面的にする感謝が
どれだけ意味のあるものなのか。
感情解放ワークで許しのテーマを行うとき、
自分が相手に何をしてしまったのかを
本当にわからずに謝罪しても、
それは何ら意味のないことで
許しは起こらないというのがあるのですが、
感謝もそういうところは
多分にあるだろうと思います。
自分が毎瞬毎瞬、一体何を受け取っているのか。
それがどれほど尊いものなのかを知らずに
感謝しても、本当に伝わっていくものは
ないのではないでしょうか。
であるならば、そこに意識を向けて
頭だけではなく、体と心を通して知る
ということが感謝の前提にあるような気がします。
昔はコンビニも外食チェーンもこんなに
どこにでもあって、いつでも食べ物が側にある
ということはありませんでしたから、
一食一食がとても「有り難い」ものだったでしょう。
自分で作物を作って収穫し、火をおこして
調理してやっと食卓に食べ物が並ぶまでに
かかった手間暇を、実際に身にしみて
わかっていたわけです。
だからこそ、かけがえもなく「有り難い」。
素直に感謝の念を抱くことができました。
けれど現代ではそうは行きません。
便利になった分、自分が生きているこの世界の
現実感が、どこか薄いものになっている
傾向は否定できないような気がします。
けれど、自分がこの世界から受けている
無数の恩に対して、気づけるような感受性は
開き続けていたいな、と思うのです。
以前、何かのテレビ番組で、
プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんが
出ていたのですが、
彼の登山の装備を色々見せていただいているときに、
酸素ボンベを持って、「これで1時間もつんだよ。
1本2万円」って説明されてたんですね。
で、
「俺たちは1時間2万円を毎日ただで吸ってるんだ」
っておっしゃられたんです。
なるほど~って思ったんですけれどね、
そうなると、1日24時間ただ生きてるだけで、
私たちは48万円分の恩恵を受けているわけです。
すごいですね。
さらに、私たちの体を構成する血や肉は、
先祖から受け継いだ無数の時空間の記憶を
蓄積している唯一無二の要素から
できています。
そんな貴重なものを与えられるのに、
私たちはそれを受け取るために
どんな代償を払ったでしょうか。
そしてそういう体を今ここまで
維持するために、どれほどの恩恵を受けながら
生きているでしょうか。
以前ある方が、神々というのは究極的には
「働き」であると教えてくださったことが
ありました。
つまり、熱い、冷たい、流れている、滞っている、
湧き出ている、などなどの動きのことです。
そういう働きの神格化が神々ということ
なのでしょう。
そういう風に神々を見ていくと、
今まさに自分のこの体の内外で無数の神々が
お働きくださっている、という事実を
見て取ることができます。
神々は何も神話の中の話なのではなく、
今まさに、現実にここで働き続けていて、
この私はその神々の働き無くして
生きることはできない、というのが
真実なわけです。
見えない世界で、有形無形に働き続ける
存在たちの恩寵に思いを馳せることが
できたなら、
少しは感謝というものを心の底から
湧き出させていくきっかけにはなるのでは
ないでしょうか。
あまりにも心が疲れ果ててしまっているとき、
なかなか感謝の気持ちにはなれないかも
しれませんが、
そんなときこそ、こんな状態でも変わることなく
与え続けられているものに意識を向けて
見ると良いと思います。
それでも私はこんなにも与え続けられている。
そのことの中に、どれほどの愛があるのか。
どれだけ自分には価値がないと思っても、
愛されないと思えても、
あなたの周辺から酸素を奪われてはいない
でしょうし、あなたの中で働く神々が
その活動を止めてしまっているわけでは
ないでしょう。
だからあなたはまだここで生きている。
与え続けられている。
その事実を、じっと感じてみてください。
すると、あなたが本来在るべきところに
戻っていけるのではないでしょうか。