人間、ややもすれば楽な方、楽な方に
流れていくものですが、
それが自分自身の本来の在り方、中心に
戻ってきたが故の安らかさであるのか、
怠惰な在り様によってずるずると
流されているがゆえの「楽」であるのか、
よくよく注意深くいないと、勘違いして
しまいそうですね。
でもこれを判別するのはとても難しい。
堕落することを恐れるがあまり、
楽や穏やかさの中にリラックスすることが
できない人も多いですし、
これが自分にとっては最善なのだと思っても、
実は無意識に都合よく臭いものにふたをして
逃避しているだけ、ということもあり得ます。
自分が今どちらなのか。
何をもって判別したらいいでしょうか。
まず、頭で考えることでは、なかなかこれは
識別できないのではないかと思います。
(よほど思考の訓練をしている人は
別かもしれませんが)
恐れや不安、ぐるぐる混乱した考えの中で、
ますます身動きが取れなくなっていく人も
少なくありません。
こういう状況で思うのは、
今の自分の在り様が結果的にどちらであろうとも、
まずは受け止めることが最初ではないかな、
と思うのです。
それをしないまま、あーでもない、こーでもない
といくら考えたとしても、空回りするだけ
のような気がします。
今自分が、怠惰故か正しい方向にいるからか、
わからないけれども、まずは在るがままに
その自分を認めてみることです。
批判も、自分を責めることも、後悔したり
先行きを不安に思うのもやめて、
ただ今この瞬間の自分をじ~っと感じて
生きてみる。
注意深く意識を巡らせながら、
その心地良さに無条件に浸ってみるのです。
何の違和感もなく、ワクワクしていたり
地に足がついた感じがしていたり、
いるべきところに、いるべきときにいる、
といったぴったりとはまった感覚があれば、
それは恐らく、正しい位置にいるのでしょう。
一方で、ザワザワもぞもぞするような
落ち着かない気持ちが湧いてくることも
あるでしょう。
そうしたら、
闇雲にそれと戦って消そうとするのではなく、
ちゃんとその違和感や居心地の悪さの奥を
しっかりと見つめ、受けめて適切に応答する
プロセスが必要なのだと思います。
これを放置していくら頭で整理納得して
「正しく」在ろうとしても、グルグル思考は
収まることはないでしょう。
今あるこの自分がどんな状態であれ、
そこにしっかりと地に足をつけること。
混乱しているのであれば、混乱している自分に
気づいて、主体でありながら同時に
観察できるような意識のポジションが
必要だろうと思うのです。
ただその時に、自分を判断やジャッジメントの
ラベルを貼って見ないことですね。
ダメだな~とか、優劣の色眼鏡とか、
もっとこうあるべきなのに、とか。
そういうジャッジメントが入ると、
もうそれは在るがままの自分を見ていない
ことになるので、地に足は着きません。
安直に、正しさばかりを求めていると、
なかなか居心地の悪い自分を受け止める
ということはできないかもしれませんね。
そんなことをするより、
手っ取り早く正解を教えてくれ!
そうすれば、すべては丸く収まるんだから!
って思うのでしょうが、
実際は単純な話ではないのです。
いくらそのようにして外から教えられた「正解」
の通りにしても、唯一無二の存在である
自分にとって、本当にそれが「正解」なのかは、
最終的に自分で腑に落とさなければいけないからです。
自分の中の違和感に気づき、落ち着かない感じを
受け止め、統合していくプロセスは、まさに
このことに重なってきます。
この丁寧な仕上げ作業(実際には最後の仕上げ
のような最終段階ではなく、常に磨き続けていく
イメージですが)をおろそかにする人は、
本当の意味で自分の人生を生きることは
できない、と私は思います。
たとえそのプロセスがどんなに無様で
不器用でみっともないものであろうと、
それを経たものだけが本物の血肉となって
その人の実在に深まりを加えていくのだろうと。
そういうことを繰り返していく中で、
以前は、これでよし、としていたことも、
まだ甘かった、さらにできることはある、
と思えるものも出てくるでしょうし、
これは違うのだ、と思えたことも、
実は違う角度から見たらそれも正解だった
ということもあるでしょう。
「正解」は常に固定され、「決め打ち」が
できるようなものではありません。
自分は常に変化し続けるわけですから、
その瞬間において、「正解」なのです。
だからこそ、私たちは本当に本当に、
今この瞬間を生きなければならないのです。
もし「正解」というものがあるのだとしたら、
それに至るには、今この瞬間を生きること
だけが入り口なのでしょう。