近頃、肉体があるからこそ触れられるもの
についてつらつらと考えております。
よく、スピリチュアルな世界観では
肉体は霊的な領域のものよりも下に考えられて
おろそかにされることも多いように思うのですが、
本当に肉体というものを極めていったとしたら、
その考えは早晩、否定されるものだろうと思います。
とは言え、私は体の専門家ではないので
偉そうなことは言えないのですが、
自分はなぜこの肉体を纏ってここにいるのだろう?
と考えたときに、肉体がないエネルギーだけの
存在では決して触れられないものがある、
というところに思い至りました。
何をいまさら、って感じですが、
私はどうしても自身のこの資質から、
エネルギーを通してこの世界を見ることが
多いのですが、
肉体をもってここにいることでしか、
繋ぐことのできないエネルギーがある
と気づいたのです。
私は昔から、自分は次元エネルギーの門である
という意識がずっとあったのですが、
(だからサロン名にも「ゲート」って
入れてるんですけどね)
何か、自分を通してこの世界のものではない
エネルギーをここに繋ぐ、ということを
多分魂の歴史の中でずっとやってたんだろうな、
という気がしています。
で、そうしたエネルギーをこの世界に繋ぐとき、
肉体を通してするのと、通さずにやろうとするのとでは、
全然入って行く領域が違うのです。
あまりにも異質なものが触れ合うとき、
間に双方の要素を持ったものがあると
より馴染めるってことなんだと思いますが、
ある意味、流れてきたものの衝撃をそこで
緩和させる緩衝材みたいな役割もあるのでしょう。
その緩衝材の質によって、繋がれたエネルギーの
働き方も随分違う。
それが、「繋ぐ者」の個性であり、
存在理由でもあるのだと思います。
その存在理由を存分に果たすには、
純粋に自分自身であること、が
とても大事。
でも、人間として様々なかかわりを持ちながら
生きているわけですから、これはなかなかに
難しいことではありますね。
何をもってして「純粋な自分」と言えるのか。
相当感覚を研ぎ澄ませて注意深く精査していく
識別眼がないとできません。
こうでなければならない、こうあるべきである、
という常識や世間体などの刷り込まれた
思い込みが強い信念になって、「純粋な自分」
を歪めていることもあるし、
それを表現してしまったら、
この世界では生きていけない、という恐れが
その自分を固く抑圧していることもあります。
けれど、人生はそうしたものを繰り返し
解いていくように、あの手この手で
呼びかけ続けます。
いびつに歪め、抑圧したものを少しずつ
解き放って行ったときに、
人はどういうポジションが自分の最も純粋な
在り方なのか、感じ取る感覚を取り戻し、
必然的にそれを知るのではないかな、
と思うのです。
セッションなどでも、私はその方の本来ベストの
在り方が最初から見えているわけではありません。
ただ、不自然に歪められたところ、
固く抑圧されたところを緩め、解いていくことで
その人の中から自然に現れてくるものが、
そこに導いてくれるのです。
私はいつも、ただそれを手助けするだけです。
その繊細な呼び声、流れ、導きに
どれだけ気づき、応答していけるか。
私はセッションでもワークショップでも、
必ず祈りとともにこれを行います。
なぜなら、祈りはこの精妙な導きを
この場に迎え入れるための、
大切なパイプの役割をするからです。
そうしてこの世界に生きる私たちが、
この肉体をもって自分自身として
完全に機能できるように、
チューニングするわけですね。
肉体は、肉体だけでは様々な領域と
完全に調和することはできないですし、
またエネルギーの領域もしかりです。
あらゆる領域を貫いて調和させることの
できる何かしらの力、それは様々な呼び方で
表現されますが、
それを意識しながら祈るとき、
私たちはより深いレベルで調和した在り方に
チューニングされるのだと思います。
そういう意識をベースにこの肉体に
戻ってきたときに、
この肉体ははるかに多くの領域と響き合う
とても美しく精巧な芸術品になっているでしょう。
自身が放つあらゆるバイブレーションを感じて、
これを最も美しく、深く、精妙に響く状態に
するには、今何が必要か。
そんな視点から、自分という存在と
この肉体をとらえ直してみるといいかもしれない。
そんなことを思いました。