「道高ければ魔盛んなり」なんて高尚なもの
かどうかはわからないけれど、
志を立てると、ぐっと何かが迫って来る感じは
これまで何度もあって、その何かと
自分の様々なキャパシティのせめぎ合いを
繰り返してきました。
自分が対処できるそこそこのところのバランスが
かろうじてのこの状況なのでしょうが、
そこから一歩抜きんでようとすると、
どうにも身がもたない。
もうちょっと何か考えないとね、
とつらつらと考えたところ。
えぇ、何のことか読者のみなさんには
お分かりにならないかもしれませんが、
色々あるみたいです。(^^;
すみません、ぼやかしてて。笑
なんだか、某先生みたいになってきました。
それはさておき、
何か事を為そうとすれば、それに見合うだけの
器にならなければなりません。
それは、具体的な何かの技術や能力だったり、
人脈や資金だったり。
そういうのを身に着けていくプロセスも、
また無心で楽しめるのが、やっぱり
自分自身が本当に願っていることを
為そうとしているときだろうと思います。
自分の取り組みの根っこが間違っていなければ、
力は自然に湧いてきますし、道筋もまるで
向こうから開いてくるように自ずから
わかってきます。
けれど、この正しい根っこを見つけるまでは、
結構紆余曲折があるのかもしれませんね。
でも、その紆余曲折も、間違っているという
わけじゃなくて、それすらも正しい道への
伏線だったり、なんてこともあります。
まぁ、振り返ってみての結果論かもしれませんが、
一見「過ち」と思えるものさえも
正しい道への伏線に変えてしまえるくらいの
歩みをして行きたいものだと思うのです。
つまり、「過ち」をただ失敗だったと思うだけでは
それはやっぱり失敗のまま、人生の汚点で
在り続けるでしょう。
でも、同じ体験でも、「汚点」にしないで、
人生のタペストリーにおける重要なアクセント
にしてしまうこともできるのですよね。
すべては自分次第です。
封じ込めて、忘れようとすると、
汚点のまま残ってしまいますけれどね。
受け入れがたい出来事って、
その人にとってはものすごく傷ついたり
ショックだったりします。
でも、受け入れられないということ自体、
魂にとっては越えていきたい学びのテーマ
と言えるのではないでしょうか。
このテーマを、この命を使って昇華させたいから、
ものすごく傷つくのを知っていながら
敢えて魂はこういうことを体験するよう
プログラムしたんじゃないか。
そんな風に思うのです。
そう考えると、このテーマを昇華させられた自分って、
とんでもなくすごい人間だと思いませんか?
そんなの絶対無理!と即座に思えたとしても、
でもそういう出来事を体験したということは、
潜在的にそういう可能性を持っている
ということです。
想像もできないような、
そのとんでもなくすごい自分の種が、
自身の内にある。
そのことを認めたときに、
その種がうずうずと、地に根を伸ばし、
芽を出していくのでしょう。
種には、自分がどんな葉を広げ、花を咲かせ、
実をつけるのか、設計図を自身の内に持っています。
その種がそれ自身として、すくすくと伸びていくのを
素直に伸ばしてやればいいのだと思います。
間違いは、別の種類の花が見たい、
身が欲しいと思ってしまうこと。
柿の種からは柿しかなりませんし、
パッションフルーツの種からは
パッションフルーツしかできないのです。
それぞれにそれぞれの良さがあるのですから、
その良さをどう認めていくか。
甘い芳香は放つけれど果肉はかじっても
ちっとも美味しくないカリンのような
実があったとして、
この実の薬効をいかに見出すのか。
自分自身の適切な使い道を知るって、
ものすごく大事ですね。
カリンはパパイヤのようにはなれないし、
カリンはカリンだからこそ、
意味があるのですから。
自分やお子さんに対して、
どうしてお前はパパイヤのようじゃないんだ!
と怒りをぶつけていないでしょうか。
在るがままを受け入れることで、
そのものの素直な可能性を引き出せます。
その可能性を見出せる自分自身の目こそ、
養うべきなのです。
現状が悪いわけじゃない。
ただ、そこから可能性を汲み上げられない
自分が未熟なんですね。
そういう能力があれば、
同じ状況に在っても、様々な豊かさを
実現できるでしょう。
そうすれば、どうにかして豊かさがやって来るのを
待つのではなくて、自ら豊かさを生み出せる
楽しさと喜びを味わえますね。
そういう眼力こそ、養っていきたいな~
と思う今日この頃であります。