光陰矢の如し。
本当に、1日1日が風のように過ぎていきます。
今日はこれとあれとこれもやろうと思って
1日を始めるのに、気が付くともう夜になって
寝る時間。
そんな日を重ねて、いくらも進まない内に、
1週間が終わり、季節が変わる。
今生、どれほどのことができるのかと
思うのだけれど、せめてこの瞬間、
ヨガのアーサナをするときのように、
今この瞬間を礼拝する在り方を
体現していたいと思うのであります。
今のこの自分の最高のパフォーマンスで、
意識を「今この瞬間」に集中させ、
存在のあらゆるレベルのズレをなくして
「ここ」にぴったりと合わせる。
時間と空間の座標軸を限りなく
1点にフォーカスさせる在り方を
意識したとき、
自分がどこか普段とは違う領域にいるような
素晴らしい感覚のフィールドに入っていきます。
とても神聖で、清々しく、安らかで、美しい。
そしてどこか懐かしい感じのするそこに、
どれだけ精妙に迫れるだろうか、と
日常の様々な場面でチャレンジ中です。
ややもすれば、すぐに意識は今この瞬間から
離れ、どこかをさ迷っていますし、
そうなると時間的にも空間的にも、
存在はぼんやりとぼやけていってしまいます。
最近、ギリギリの状態で意識をどこまで
持ちこたえて何かしらの作業ができるか、
みたいなワークをたまにやっているのですが、
地道なのだけれど、コツコツ続けていくと、
そういう状況でも意識の使い方が
こなれてくるな、という実感があります。
この感覚が、ヨガのアーサナをするときにも、
感情解放ワークでも実はとても役に立っていて、
意識の集中を絶やさずに一定の密度と質を
保てることの恩恵は計り知れないな、
と思うのです。
意識が飛ばない、限界ギリギリのところ、
刀身の上を辿るような、そのポジションでの
安定した状態でいることで、初めて
見えてくるものもあるからです。
今、私は自分の中の、とても奥深いところにある
古い痛みに取り組んでいます。
これまで、何度も取り組んできて、
段階的に癒しや解放は起こっているのですが、
未だに残っているそれ。
ものすごく深く傷ついて、ショックを受けて
いる中で、自分自身が吹き飛んでしまった
ような感覚があるのです。
そうして、それまで人生のすべてをかけて
信じていたもの、莫大なエネルギーを
注ぎ込んできたものに背を向け、
離れていきました。
今生、あらゆる場面で噴き出してくる
怒りや悲しみ、不信感や虚しさ、無力感の
根っこがここにあります。
私は、未だにそれを回復できていないのです。
壊れた桶のように、どれだけ水を注いでも
流れていってしまうひび割れた心を、
どうにかして修復し、失ったものを
取り戻さなければいけない、と思っています。
そのために、かつて心が吹き飛んでしまった
ようになったそのときに、一体何が
起こっていたのか、知らなければなりません。
かつては意識が飛んでしまっているので、
何が起こったのかはわからずにいるからです。
引き裂かれていく自分を当事者として
体験しながら、その出来事が、
自分を通過していくのを見届けるわけです。
これまで、何度かそういうワークも
してきて、変容のプロセスも通ってきた
のですが、今回はなかなかにキツかったです。
それでも、時間をかけて少しずつ取り組むと、
かなりのボリュームのエネルギーが
解放出来ました。
今の自分が受け止めても大丈夫な分ずつ、
止めていた感情の動きを断片的、継続的に
出していきます。
普段あまりエネルギーが流れないところ、
デリケートな部分故に流れてほしくなくて
止めていたところに流れていったので、
それまでどれだけその部分を使って
いなかったのか、また何故使えなかったのか
がそのときにわかりました。
以前から無意識のうちに、
そこは使うと負荷がかかりすぎて
自分が壊れてしまいそうだと
感じていたところでした。
要は、「抜く」ことができれば
良かったのだけれど、止めていたから
その状態で負荷がかかればショートして
しまうことをどこかでわかっていたのですね。
抜き方が分かったので、これからは
もう少しうまくやれそうな気がします。
ワークはいつも、自身の限界ギリギリの
ところを越えていくわけですが、
繰り返すたびに、その限界ラインが
変化していきます。
そして、そこから見えてくる景色も変化していく。
私は、かつて失ったものを取り戻したい
と思っているのですが、別の言い方をすると、
失ったと思っていたけれど、実は
失われていなかった事実を発見したい。
そうして、恨みや失望が幻であったことを
この目で確かめたい、と思うのです。
まだワークの途中。
それは見えていませんが、
コツコツ限界ラインを越えていくよう、
修練を続けていくことにします。