昨日は感情解放ワークショップでした。
台風迫りくる中、ご参加くださったみなさま、
ありがとうございました。
今回は初めての方たちと常連の方の
クラスでしたが、
初めての方はご自身の感情に触れていくことに
最初はとても恐れを感じていらしたようでした。
それを受け止めなければならないのは
頭ではわかっている。
でもどうやってそれをしたらいいのか
わからなかったり、そもそも触れても
大丈夫なものなのか?
ひょっとしたらパンドラの箱を開くように、
開けたら最後、収拾がつかなくなってしまう
のではないかと恐れていたり。
でも実際やってみると、自身の人生で
何が起こっているのか、どうして同じことを
繰り返しているのか。
止めたいと思っているのに、
なぜそういう言動をしてしまうのか。
そうしたことが一気にひも解けていきます。
そして、自分の感情に触れるというのは
どうやるのか、触れてみたときに
何が起こっていくのかを体験されます。
それまでどうやっても癒えなかった
心のしこりがとけ、緩んでいくことを
実感されると、もっと自分の感情を
受け止めていきたいと思われるのです。
ワークショップの最後には、
「受けて良かった~!」とおっしゃってくださり、
本当に私も嬉しく思いました。
辛い感情にも触れても大丈夫だし、
自身の内側でお迎えを待っている
感情のカケラ君たちは、
その瞬間を一日千秋の思いで
待っています。
早くボクを助けに来て!ってね。
そうしてやっと触れ合い、統合がされていくと、
とても深い安堵感と喜びの感覚が訪れます。
抑圧された感情に触れていく、
安全で無理のないやり方があるんですね。
それを、このワークでしっかり身に着けて
行っていただければと思います。
そうしてワークの基本が何となくでも
意識されるようになっていくにつれ、
段々と自身のより深いレベルが開いて
いくようになります。
自分の中の様々な矛盾や醜さ、
脆さや美しさなどに驚き、戸惑いつつも、
触れていくようになるでしょう。
そういうプロセスの中で、
どうしても受け入れられなかったり、
見ることのできないものも出てくるかも
しれません。
そういうとき、
私は常に、祈るようにと勧めます。
それを何とかして受け止めたいという意志や
勇気がその人の中に生まれるということ自体、
これは紛れもなく恩寵であると思うからです。
自分の意志ではどうにもならないこと
に対して、恩寵を祈るのです。
努力ができないことを嘆くのなら、
努力する力が自身の内に宿るようにと祈り、
恐れにすくみ上っている自分を
許せずにいるのなら、それを許し、
受け入れる力を与えてくださるように
人生を導く力に祈るのです。
もちろん、信仰のある方は
その対象に祈ればいいでしょう。
私のお伝えする感情解放ワークは、
私が祈りとともに自分自身に向き合い、
構築していったワークです。
それは単に抑圧された感情を解放する
ということのみが目的なのではなく、
深く自身の霊性から生きていく在り方を
実現するためのものです。
人生は、しばしば個我の力では
どうにもならないことが起こります。
そんなときこそ、個我の領域を打ち破って
より大きなものに自身を還元していく
チャンスなのです。
けれど、そのためには個我の枠組みを
打ち破っていかなければいけません。
それが、個我にとってはとても恐ろしいこと
に感じられるんですね。
だから頭でそうした方がいいとわかっていても、
ものすごく抵抗する。
恐ろしくて仕方がないからですね。
だからそんなときこそ、
祈るのです。
私に、このプロセスを超えていく力を
与えてくださいと。
そうやって純粋に祈る時、
私たちは自身のコントロールを手放して、
より大きな力が自分に働くことを
受け入れて行くのです。
この状況がどうにかなるように、
と結果だけを求めて他力本願で祈るのと、
上記のように祈ることの違いがわかりますか?
目の前の問題だけ消えてなくなればいい
というスタンスでいくら祈っても、
恐らくその願いが叶う確率は
とても低いのではないでしょうか。
両者の違いは、差し出されたメッセージに
耳を傾け、謙虚に、かつ真摯にそれに
応えようとしているのかどうか、
というスタンスの違いです。
メッセージに聞く耳は持たないまま、
目の前の問題だけどうにかなればいい
のではダメですからね。
ワークを通して、人生と深く対話することを
在り方として定着させていくよう、
私は繰り返し呼びかけています。
人生の極わずかな時間でも
私に出会い、関わってくださった方が、
何かしら自身の霊性に触れていく
きっかけになっていけたら、
とても嬉しく思います。
すべての出会いに、心からの感謝を。