この時代、隠されてきたものが
良くも悪くも次々と明らかにされる
というフィールドになっていて、
もう随分前からそんな動きの中、
私たちは揺さぶられ続けています。
長いこと否定し続けてきたものを、
四苦八苦しながらどうにか認めて
一皮むけたぞ!と思ったら、
さらにその下から、隠したことすら
忘れていたものが突然うごめき出す、
なんてことはしょっちゅうで。。。
今度こそこれが正真正銘の底だ!
と思っていても、まだまだ何重にも
底はあるようです。
最近も、自分の奥底で何かが胎動している
と感じたばかりだったのですが、
雛が殻を内側からくちばしで突いているような
間断ない圧を感じております。
そんなこんなで、色々と内観をしていたときに、
突然、気づいたことがありました。
私がずっと恐れていたこと、
全力で逃げ続けていたことが何だったのか。
先日の記事で、
私は自分を殺す努力をしてきても、
自分を生かす努力、幸せになる努力というものを
したことがなかったと気づいたと書きました。
抑圧した幸せへの欲求の下から出てきたのは、
与えることの喜びでした。
無条件に与えに与えに与え尽くす喜び。
本当は、これこそがやりたかったと。
けれど、実際は固く抑圧して
自分でもそんな欲求があるなんて
夢にも思わないほど、
忘れ去っていました。
普段は、与えられる方、もらえる方が嬉しいな~
なんて思っているのですが、
与える喜び、衝動は、もらえる喜びの
何十倍、何百倍も、比べようもないほどに
深くパワフルなものでした。
無条件に与える喜びは、
もちろん見返りは求めていませんし、
本来はそこに恐れはありません。
圧倒的にパワフルなんですね。
けれど、これが日常のレベルに降りてくると、
どこかで微妙に恐れがまとわりついてきて
変質していきます。
与えることが迷惑にならないか、とか、
受け取ってもらえないんじゃないか、とか。
変に気を使ってしまって、ブレていくんですね。
それで、与える喜びは急速にしぼんでいきます。
そして、本来の無条件に与え尽くす喜びは
見る影もなく、恐れの陰で矮小化されたものに
なってしまうのです。
でも、最初の純粋な、恐れのない欲求を
思ってみたとき、自分がどれほどそれを
望んでいたのかを思い出しました。
それはあまりに意外で、
自分の中にそんな欲求があったこと自体が
ものすごく驚きでした。
逆立ちしても、そんな高尚な喜びには
到達し得ないと思っていたので。
それが、自分の存在の奥深いところから
噴き出してくるとは。
私はどれだけ、自分を矮小化させて
いたのでしょう。
恐れは、何とも強力な魔法ですね。
取引のレベルで与えること、受け取ることを
見ていたのでは決して触れることのできないもの
があります。
マーケティングなどで、よく利益を得たいなら
最初に気前よく与えるように、と言われますが、
そういうテクニック的なものではなく。
win-lose でも win-win でもない、
とてつもなくパワフルで無限に湧き出る
豊かさの愛の領域ですね。
与えるには、受け取る存在がなければ
成り立ちません。
そういう意味で、受け取ってくれる相手がいる
ということは、ものすごい恩寵であるな、
と思いました。
受け取る相手がいることで、与える側は
無限の豊かさを循環させ、溢れさせ続けることが
できるからです。
余計な下心とか恐れを超えて、
全力で、本当に与え尽くすことができる
機会を得た人は、幸運です。
無心に、ただ自身の深い所から湧き出る
その欲求を思い切り表現してみたら
良いと思うのです。
それが依存ではないかとか、
こんなに与え続けたら、自分が枯れてしまう
のではないかとか、
自分を見失ってしまうのではないか、
利用されるのではないか、などなど、
実際に盲目的に与えて、痛い目に遭った方も
あるかもしれませんね。
それでも、自分自身を見つめ続け、
磨き続けていったとき、
いつか必ずそうしたトラウマ、恐れを超えて、
無心に与え、受け取られる愛の循環が
起こる時が来ると思います。
そのとき、あなたは本来のとてもパワフルで
美しい存在に大きく変容しているでしょう。
実は世界は、そういう与え尽くす喜びの愛で
満ちているのではないかな、と思います。
私たちがいかにそこに気づき、
共振・共鳴していくか。
恐れを超えて、
純粋にそこに身を投じていきたい
と思うのです。
私たちは、本当はずっとそういうことを
望んできたのではないでしょうか。
あなたの人生に、無限の喜びが溢れますように。