この仕事に入って様々な人を見る中で、
いつのころからか、その人がどのくらい
自分自身につながっているか、
言い方を変えれば、
自分の中に分離や乖離があるのかが
直感的に分かるようになってきました。
自分自身と深くつながっていない人に
共通しているのは、思考優先で
ほとんど感じる感覚を使っていません。
そして、自分のことを表現するときも、
ほぼ意識が外側に向いていて、
内側に触れていない。
だから、表現されたものに奥行や
響きがないんですね。
どこかからか拾ってきて、
自身の血肉となっていない
見てくれだけのきれいな言葉か、
乱雑なつぎはぎだらけの
粗い質感のエネルギー。
人とお話するときは
こうした言外の様々な情報が入って来るので、
そこから
まだホントのこと、言ってないよね~、とか、
見ないようにしているものがあるよね~とか、
わかるのです。
それを前提としたうえで、
様々な問いかけをしていく。
本人がまだ認識できていないものもあるし、
認識していたとしても、
見ることを拒絶しているものなど
なんかこの辺りが問題の核心みたいですけど
見ますか?どうしますか?って
選択を促したりもします。
本人も、何となくわかっていても、
改めて突き付けられると、
決めなくちゃいけないですからね。
そんな風に意識に上げていくことも、
大切な機会だと思います。
どんな選択にせよ、そういう機会を
ぜひ有効に使ってほしいと思います。
見ないっていう選択をすること自体が
悪いわけじゃないんですよ。
でも、自分は今、そういう選択をした
と認めることも、実は結構大事なんです。
一番自身の歩みを止める選択は、
「自分の選択を自分で認めない」
っていう選択です。
今は見ないという選択を実はしているのに、
そういう自分をジャッジメントして、
いけないことだと思っていたりする。
すると、
自身のその選択を認めてしまうと、
自分はいけない人間なんだ、
ということになってしまうので、
どうしても認められない。
で、どうするかというと、
「なんだかよくわからないです」
って感じで、「選択しないという形の選択」を
するわけです。
こうなると、自身の選択の結果を引き受ける
ことができなくなりますね。
だって本人の中では、選択したという意識が
ないわけですから。
ということは、自身の人生を創造していく力を
放棄しているようなもので、人生はただただ
受け身で流されていくようなものになります。
これは、人生の流れを信頼して委ねている
状態とは全く違いますので、混同しないように。
こういう流され方をすると、
無力感が強くなっていきますね。
人生の導きに応答するということは、
導きに心を澄ませることと同時に、
それに応答していくという能動的な部分の
共同創作なんですね。
委ねて、毎瞬反応ではなく応答していくこと
の中に、自分の人生を生きている実感とか
喜びが生まれてくる。
選択し、結果を引き受けない人に、
その喜びはないでしょう。
応答していくには、
自分自身との間に乖離や分離があっては
できないのです。
繋がれていない人は、
そこを外側の情報で代用しようとしますけれどね、
所詮は無理な話です。
自分の中の分離を解いていくために、
感情に対処できる術を身に着けることは、
必須だろうと思います。
なぜなら、多くの場合、分離を作っているのは
耐え難い感情を抑圧するためだからです。
抑圧があるということは、
すなわち分離があるということと
イコールなのです。
自分に許せる感情の領域が広くなっていくほど、
欠けていた内側の視野が広がっていきます。
たとえば、怒りを抑圧している人が、
怒りとの上手な付き合い方を身に着けていくと、
自分の中に怒りが存在することを
許せるようになります。
分離させておく必要がなくなるので、
隔離しないで全体として見ることが
できるようになります。
部分しか見られない、あるいは
欠けた視野でものごとを見るのと
大きな視野で見るのとでは、
全く違った世界が見えるのは道理でしょう。
内面の場合はこれがとても多くの領域で
起こっていくんですね。
そして、奥行きが深くなっていく。
存在の響きが全く違ってきます。
ワークは、取り組んだテーマのところに
変化があるのは確かですが、それ以外の
「あれ、こんなところも?」と思うような
ところにも変化が起こっていることに
後から気付いたりします。
最近、集中的にセッションや講座、
ワークショップに参加されて取り組まれていた
クライアントさんからも、こんなご感想を
いただきました。
良かったら参考になさってみてください。