夏至の前に、個人的にちょっと揺さぶられる
出来事があって、自分の軸を改めて確認
する機会がありました。
過ぎて見れば、このタイミングで揺さぶられて
良かったな~なんて思うわけですが、
その最中はやっぱり落ち着かない。
落ち着かないから、
これはジタバタするより肚を決めねば
ならんときだな、と覚悟を決めて、
自分の深奥にぐっと意識を向ける
時間を作りました。
これがものすごく大事な転機になった
と思います。
自分の中で、それまでことあるごとに
浮上していた迷いと、すっぱり決別
することができました。
どんなにきらびやかですごいものの
ように思える誘惑も、私の行く道は
そっちじゃないよね、と
はっきりと感じるものがあったのです。
それまでは、誘惑がやってきては
自分の在り方に疑問を持ち、
ふらふらと手を出したりしてみた
のですが、どれも結局うまくいかない。
それは自分の中の努力が足りないとか
センスがないとかいうよりも、
そっちじゃないということなんだろうな
と、やっとそのことを受け入れられた
わけです。
やれやれ、何年かかってるんだか。(^^;
でも、夏至を前にこの先の自分の軸を
しっかり定められたことで、
これからのタームを力強く歩んで
行けそうです。
というか、そういう状態になってないと、
この先もたない。そんな気すらしています。
それだけ、時代が混迷を深めていく
のかもしれません。
いたずらに不安を掻き立てたくはないけれど。
自分の軸を立てるべき基盤を間違わないように。
自分自身でそれにしかと触れている感覚が
わかるように。
そういう感覚を研ぎ澄ませておくことと、
きちんとそれができているかどうかを
指摘してくれる信頼できる人と
交流することが大切です。
あなたの周りには、ここぞというときに、
耳の痛いことも躊躇せず言ってくれる
友人知人が、どれだけいるでしょうか。
そういう人を遠ざけて、
耳に心地良いことばかりを言う人たちに
囲まれていないかどうか。
本当に価値ある交流ができる
人たちこそ、大事にしたいものです。
これからは、さらにこの方向に
深く根を張ることをしていこうと思います。
そうなると、これまで疑問に思いつつも
振り回されていた様々な価値観や
しがらみに重心を残していた足を、
ひっこめることになります。
自分の本分は、そこじゃない、
ということを在り方を通して実践するには、
「そこそこ根を張っている」程度では
ダメなんだろうと思うのです。
紛れもなく私の本分はこちらである、
と全重心を移すことになるわけですから
この違いはものすごく大きいです。
今まで、どうしてスコン!と軸が
ここに定められなかったのか。
失敗して、痛い目を見て
これは違う!と身をもって経験しないと、
本当に大切なものを選べないという
悲しい性と未熟さゆえかもしれません。
こういうところで、ぼろが出るんです。
これが心の隙というヤツですね。
お釈迦様が悟りを開くために菩提樹の下で
瞑想に入ったときに、様々な魔が誘惑をしたり
脅したりしてきました。
お釈迦様はこれをことごとく退けられた
わけですが、私たちは誰しも、
本当に大切な基盤に軸を立てようとするとき、
お釈迦様と同じ道をたどるものなのかも
しれません。
自分自身で、毅然として魔を下さないと
いけないわけですね。
これが、不可逆的な関門です。
魔は、いかにも怪しい、わかりやすい姿で
現われはしません。
その人にとって、信頼できそうだな、
こんなにも素敵だし、誠実そうだし、
という姿で現れたりします。
泥棒が、サングラスに黒づくめの怪しい服
ではなく、スーツ姿のサラリーマンを
装って現れるようなものですね。
その人にとっての固定概念をうまく使いながら、
不安に思っていたこと、恐れていることを
回避できると囁いてきます。
中にはそれが本当に役に立つ話の可能性も
あるかもしれませんが、それが真実なのか
どうかを見極めるには、思考データは
役に立たないのです。
逆に、魔はそれをふんだんに重ねて
提示してくるでしょう。
真実を見極めるには、最終的には
思考ではない感覚を頼るのが
本当は一番良いのです。
それが機能できるような状態に
なっていることが重要ですね。
そのために、日ごろから自身の基盤に
しっかりと足をつけておく在り方を
研ぎ澄ませておくことです。
誰かにとっては、真実で正解だったとしても
同じ話が必ずしもあなたにも適用できる
というわけではありません。
自分にとっての真実は
自分で見極めるのです。
本当に軸が定まるまで、私たちは
あちこちに頭をぶつけながら学び、
魔を退ける勇気と胆力を磨いていく
のかもしれません。