日々、サロンの中だけでなく、
街に出かけて行ったときに見かけた
様々な人の様子を見ながら、
職業柄か、私は人々の意識を
思うことがよくあります。
最近は、良く散歩に行く公園で、
至る所に落ちているゴミを見て
色々考えていました。
小さなゴミをうっかり落としてしまった
というレベルではなく、もう明らかに
意図的に所かまわず棄てている感じで、
たばこのポイ捨てなんてかわいく
思えるくらい、道端、広い芝生のスペース、
ベンチの下や裏に、お弁当の殻やペットボトル、
空き缶が散乱していたりするのです。
ここでは説教臭い話をしたいわけではなく、
こういうことができてしまう意識って、
どういうものなんだろうな、と考えて見ると、
色々気づくことがあります。
ゴミを捨てる人にとっては、
厄介なものをそこに置いていって
自分がそこから立ち去れば、
もう自分の視界からは消えてなくなります。
後は野となれ山となれ、なのかどうか
わかりませんが、自分の視界から消えれば
存在しないも同然なので、「関係ない」
って感じなのかもしれません。
でも、棄てられたものは処理されない限りは
ずっとそこに在り続けます。
公園も、週に何回かお掃除が入るので
大きなものは業者さんが処理してくれて
いるのでしょう。
けれど、小さなお菓子の封を切った
切れ端だとか、見えにくいところに
押し込まれたゴミまでは、広い公園ですから
なかなか手が回らないでしょう。
そうしてずっと残っているんですよね。
何か月でも、何年でも。
ゴミの棄て方を観察してると、
きっとこれは同じ人がやっているんだろうな、
と思うこともあります。
ベンチの隙間に押し込むようにティッシュを
棄てていたり、ベンチの後ろに食べ散らかした
ようにふたを広げた状態で袋にも入れてない
殻が棄ててあったり。
そうやって微妙に処理されずに残っている
ゴミの上に、また戻ってきてゴミを重ねる
心理を思うと、
相当何かが麻痺してないと、そこには
いられない気がするのです。
私だったら、周囲や下にごみが散乱した
スペースには絶対座りませんし。
でも、公園でくつろいでいる人たちを見ると、
結構平気でゴミの上で食事をしてたり
するんですよね。
この光景が私にはとても不思議に見える
のです。
そして、よく言われることではありますが、
1つゴミがあると、きれいなスペースには
ゴミを捨てない人でも、つい、いいか
と思ってごみを捨ててしまう。
そしてその次にそれを見た人も、
ここはごみを捨てていいスペースだと
認識してしまい、ますますゴミが
集まって来る、ってありますよね。
そうやって堰を切ったように
場が変化していく。
これと同じことが、その人の心の中でも
起こっているんだろうな~って思うのです。
そのゴミをそんな風に棄てたように、
心の中で手に余ったものも、どこかに
放り投げ、意識の視界から消えれば
もう関係ない、と。
そうして積み重なった大小のゴミは、
心の中で微妙なノイズとなって
影響していると思うんですね。
随分前に、若い女性が幼い二人の子供を
残して失踪し、残された子供が遺体となって
発見されたという痛ましい事件がありました。
そのとき、その女性はドアに目張りをして
カギをかけて出ていったんですね。
その報道を聞いたとき、この女性は
自分の心の中でも同じことをやっている、
と思ったのでした。
気持ちのカケラ君たちに背を向け、
閉じ込めて声が聞えないように周到にふたをし、
逃避していたんだろうなと。
今日はあまり気持ちのいい話ではなく
読者の皆さんには申し訳ないのですが、
ただ、あまりに散乱するゴミの尋常でない多さに、
どうして多くの人が無関心でいられるんだろう、
とその意識にとても危機感を覚えるのです。
その公園は、週末にはとても多くの人たちが
憩いの場としてやってきます。
けれど、人々が帰った後歩くと、
そのあまりのひどさに樹々や花々、ここに暮らす
生き物たちへの配慮のなさ、リスペクトのなさに
唖然とするのです。
それはまさに「環境を消費している」
と私には思えます。
近頃ブームのパワースポット巡りにも、
同じような意識をしばしば感じることがあり、
聖地のパワーを普段の意識そのままに、
消費し、食い尽くしているような
おぞましさを感じたりもするのです。
大それたことをするべきだ!と言っている
わけではありません。
ただ、何か大切なことがすっぽりと抜けて、
無意識に奪い、貪るような生活をしてはいまいか。
私自身を含め、今一度在り方を振り返って
みたいと思ったのでした。