昨日は感情解放ワークショップでした。
満員御礼でお集まりくださったみなさま
ありがとうございました。
熱心なみなさんに、現在月3回のWSを
4回にしてほしいとリクエストがあったので、
5月ももう一回やるかな~と思案中ですが、
このカレンダーのどこに入れるか。。。
リクエストありましたらぜひ
ご連絡くださいませ。
そんなこんなで、昨日のワークショップは
みなさんのそれぞれの成長をひしひしと
感じられた回になりました。
なかなか体感も感情も出てこなかった方が
両方をしっかりとらえられるようになって
一つのワークを完了させられたり、
ずっと認めることを拒絶してきたものを
受け入れ、方向転換できた方もあったり。
お一人お一人が自分自身から逃げずに
向き合おうと決めてこられたからこそ、
できるようになったことだと思います。
それがほんの小さな一歩にみえたとしても、
魂の歩みにとってはものすごく大きな
一歩です。
どうぞこの一歩を、心から誇りに思い、
この一歩の上にさらに強固な土台を重ねて
行っていただけたらと思います。
自分の非を認めるって、
なかなかきついものがありますよね。
私はそんなことをしてない!
私のせいじゃない!
私は悪くない!
あれは○○のせいだ。
仕方がなかったんだ。
え~?何のこと?
言い訳や逃避の言葉はいくらでもあります。
でも、ちょっとでも認めてしまったら、
自分がその上に構築してきたロジックが
全て根底から崩れていってしまいます。
私はやってない!って言い張っていた犯人が
逃れられぬ証拠を突き付けられて、
ヘナヘナヘナ~と崩れ落ちていく。
そして有罪確定、みたいな感じです。
有罪が確定した惨めさや敗北感、その他
諸々の苦しみを味わいたくないがために
絶対に認められない、否定し続けなければ
いけないわけですが、
真実を認めるには、その後に起こるこうした
様々な感情の表出を受け止める準備が
必要です。
本当は、そうしたことはその人の中で
もうすでに起こっているのだけれど、
真実を否定することでそれらは
「無かったこと」になっているので、
あるのに無いという、宙ぶらりんな形で
時間を止めて固まってしまうのです。
そうしたものは、真実を認めない限り、
いつまでも残り、様々な機能不全の
原因になっていきます。
けれども、私たちの多くは
「自分が悪者になりたくない」ので、
なかなか「私が間違っていた」とは
言えないんですね。
あなたの周りに、そういう人、
いませんか?
誰がどう見たって間違っているのに、
頑固に意地をはるのって、格好悪い
ですよね。
素直に認めて謝罪し、方向転換できた方が
ずっとスマートで懐の大きい人に見えるのに。
もしそうしたいと思えるのなら、
意地をはることで支えてきたものが
崩れるのを、どうにかして受け止める
ところから始めましょう。
そうすると、自分の非を認めることへの
抵抗感がぐっと少なくなって、
素直に事実を受け入れ、
それに応答できるようになります。
意固地になる人ほど、
自分が痛みや混乱を受け止められない
という恐れを抱えているんですね。
ワークではこういう場合、本人が固く
「できない」と信じているものを、
「実はできちゃう力を持っているよ」
ということを認識してもらう働きかけを
よくします。
痛みと混乱でテンパってる状況では、
そう言うことができるとは、
本人もとても思えないわけです。
けれど、別の視点から見たら、
ちゃんとそれができる力を持っていることが
確かに見えることがあります。
ただ、やろうとしていないだけ
だったりするんですね。
その部分の、ほんの小さな気づきさえあれば、
一歩を踏み出せるのです。
ものすごく色々な能力を身につけなければ
到底できないということではありません。
もともと持っている自分の力にいかに気づき、
引き出していくか、ということだけですね。
自分の中に無限の可能性の井戸があっても、
そこから水をくむ方法を知らなければ、
その可能性は無いに等しいのです。
可能性の井戸からどうやったら水が汲めるか。
ご自身でこの命題を問いかけてみてください。
ただ難問を前に途方に暮れるばかりでなく、
今の状況に対して、自分に何かできることが
少しでもあるだろうか?と見ていきます。
問いかけ方のほんのわずかな違いで、
何の道筋も見えなかったところに
糸口を見出すかもしれません。
そうした道筋を開拓するのも、
「それができるようになりたい」という
強い思いです。
自身の非を認められるだけの器のある自分
として生きることができたら、
どれだけ気持ちは清々しく、人生は
調和に満ちたものになるでしょう。
真の調和は、真実の上にのみ構築されます。
あなたの人生が、真の調和で満ちますように。