最近、中沢新一の著作をいくつか
読んでいるのですが、
私が感じていたものはこれだったのか!
という驚きや発見があって面白いです。
彼の著作は、随分前に
「アースダイバー」(講談社刊)を読んだくらいで
あまり知らなかったのですが、
先日、映画「空海」を見るので原作を
読んでおこうと思い、夢枕獏さんの
「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」を読んだところ、
巻末の鼎談の中で中沢氏の著作に触れている
ところがあって、この流れにつながっています。
映画自体は、原作のすばらしさを知っていると、
この映画にこのタイトルをつけるか、と思うほど
空海が脇役だし、
一つ一つのエピソードの持つ意味合いが
断片化され脈絡なく繋ぎ合わされて、
構成自体が失敗しているな~という印象で
何とも残念な感じでしたが、
唯一の収穫と言えば、私を中沢新一に
つなげてくれたことかな、と思います。
まぁ、映画評は置くとして、何となく暇つぶしに
と手に取った「古代からきた未来人 折口信夫」
(ちくまプリマー新書)という著作の中で、
ハッとする一文がありました。
芸能者は、病気や死や血や腐敗の領域に触れながらそれを若々しい生命に転換する奇跡を起こそうとする芸能というものに、われとわが身を捧げてきた。出典:「古代からきた未来人 折口信夫」(ちくまプリマー新書)
この言葉が、私自身が最近抱えていた葛藤に、
ハッとする気づきをもたらしてくれたのです。
先日、知人に「エンティティが憑いているよ」
と言われたときに、
ちゃんと対処しなければいけないな~と思い、
その辺はしっかり処理をするようになった
のですが、
根本的に自分の領域内にそれらを入れない
という選択はしませんでした。
入ってもいいけれど、ここに来たら
心の重荷を下ろして光にお帰り
って言ってあげたいんですね。
そのための場でありたいというこの思いが
心の隙になることは重々わかっていても、
それを変えたいとはどうしても
思えませんでした。
もしするのだとしたら、そういう場
としての自身のグレードアップの方を選択
したいと思います。
この思いがエゴの傲慢さやある種の代償行為、
または依存から来るものなのかどうか、
注意深く見極めなければいけないとは
思っています。
そんなことを考えていた時にこの言葉に触れ、
私がやろうとしていたことは、まさに
このことじゃないか!と感じたのです。
私はヒーリングというものを探求しながら、
常に人間の闇とも言うべき領域に
どうしようもなく魅かれている自分を
感じてきました。
そして、最も深いその闇の極で、
奇跡のような、想像を超えた深い愛を
見出す喜びに打ち震えてきました。
故に、私にとってそうした闇は
恐れ忌み嫌うものではなく、
まさに「若々しい生命」が生じるところ
でもあったのです。
だから、私のセッションでは、
しばしば準備のできた人に対しては、
自身の深い闇に落ちるよう、背中を押す
ようなこともします。(恐いですね!)
もちろん、私も常にその人の側にいて、
そういう領域を迷うことのないように
統合に向けた道案内をします。
こうした歩みを通過することで、
その人は長いこと抱え込んだ「死んだ自分」を
再生させていくことができるのです。
私がよくこのブログで書いている「変容」
というのは、このようなプロセスを通って
起こります。
このプロセスでは、中途半端に「死んだ自分」
を抱えて保っているアイデンティティは、
文字通り一旦死ななければなりません。
苦しいのにしがみついているそのメリットを
明確に認識し、手放しても大丈夫な自分を
整えたうえで手放すのです。
そこから機能不全に陥ったアイデンティティの
崩壊・変容が起こります。
こういうことをしていると、
多くの人が忌み嫌う醜さや闇は、
私にとっては光への転換ポイントであり、
膨大な可能性を秘めた領域への入り口
として捉えられます。
以前は(今でも少し)、こうした闇に
どうしようもなく魅かれるのは
あまりよろしくない傾向なのかと
思い悩むこともあり、多少セーブも
してきたのですが、
持っている気質だけに、
根本的になくすことは難しいですね。
(そうしようとも思ってませんけれど)
ただ、自分がどこまで踏み込んでも
大丈夫なのか、という見極めだけは
しっかりしておこうと思っています。
自分の手に負えないものにわざわざ
ちょっかいを出すような真似は
もちろんしません。
悪魔祓いとか、そちらは私の専門外ですしね。
(たまに依頼がありますが、専門の方を
ご紹介するか、お断りしています)
そんなこんながあって、
日課のジャパ(マントラを繰り返し唱える)を
やっていたときに、多分どこかの人生で
強く強く願った祈りが自分の内側から
湧き出てきました。
多分、仏教用語でいえば「誓願」になる
のでしょうが、いくつもの人生を貫いている
誓いというものが、確かに今も自分の中にある
ということを実感しました。
諸々、自分の中の様々な要素を広げて
眺めながら、深く振り返ってみる時期
に来ているようです。