最近、日常の流れの中で、
微妙にストレスを感じているときの
自分に気づくことがありました。
仕事が立て込んでいるときとか、
体調があまりよくないときなど、
胸の奥に微かな緊張と不安を
捉えられたのです。
それを感じているときはいつも、
呼吸がとても浅くなって、
意識が体から全部ではないものの、
微妙にずれた状態になっています。
そうした自身の状態の一つ一つに
気づきながら、ふと
「現実に抵抗しているんだな」
と感じました。
ぐっと息をこらえて身体を固くして、
自分と現実の世界を分離させて
いるように感じたのです。
体がきつい時も、意識がどうしても
クリアに保てないときも、
それはそれで受け入れて、
そうである在るがままの自分でいよう
と思いました。
意識がクリアで、体もいい状態でなければ
本当の自分ではないのだとしたら、
そんな自分でないときの方が多いわけですから
ほとんどの時間を自分でないものとして
いなければなりません。
そうではなく、調子の良い時も悪い時も
ともに在るがままの自分だと
受け入れることにしたのです。
今さらですけれど。笑
これまで、結構受け入れていたつもり
でしたけれど、微妙なレベルで、
「そうではない別の自分」になろうと
頑張っていたようです。
その頑張りが、余計な不安や緊張を
作り出していたのです。
近頃、こうした「微妙なレベルの頑張り」に
段階的に気づくことが何度かありました。
心の奥で、
「そうであってはいけない」
「そうではない自分になろう」と
いつもいつも頑張り続けてきたこと。
あまりにそれが普通になりすぎていて、
頑張っていることにすら気づかなかった
部分に、微かな緊張から気づけるように
なりました。
そうして何十年も頑張り続けてきたけれど、
「そうではない自分」には1ミリも近づいては
いないようです。
そもそも、なぜそんな自分になりたかったのか
と言えば、大切な人に迷惑をかけないために
という理由からでした。
大切な人が私のために苦しむ姿を見るのは
辛かったからですね。
けれど、どうやっても迷惑をかけない自分
にはなれないようでした。
それを認めたときにふと、
大切な人に背負わせてしまっている
と思っているその「重荷」を、
私の人生を導くという「神」に
委ねてしまえばいいではないか、
と思ったのです。
そう思ったら、どこか張りつめていた
気持ちがふっと緩んだのがわかりました。
もう重荷を、大切な人に負わせることも
自分で背負うこともしなくていいんだ
という安堵と、
本当は罪悪感なく、無邪気に甘えたかった
んだな~という、これまでまったく
気づくことのなかった自分の本音に
気づいた解放感がありました。
重荷を下ろしたことで、
また一歩「内なる神」との距離感が
縮まったようで、
じっとその響きを感じながら
チューニングをしていると、
自分でばたばた動かなくても、
何だか色々、整ってしまいました。
今までは、自分が何をどう頑張って
しまっていたのか、気づかないままに
委ねようとしていたので
うまくいかなかったのでしょう。
やっぱり気付きって、大事ですね。
誰しも、多かれ少なかれ
「より良い自分」になろうと日々
頑張っているところがあると思います。
そこに、微妙なレベルでの
「自己否定」がないかどうか。
それがたとえ1ミリでもあれば、
いかに頑張って前に進もうとしても
その努力はどこかで虚しいものになります。
否定した要素は、必ず差し戻される
からです。
在るがままの自分を否定することは
在るがままの現実を否定し、
それに抵抗することでもあります。
すると、自分と現実との間に
分離が生まれます。
これが、空回りの原因になるのです。
地に足を付けてものごとを動かしていく
には、必ず今あるがままの現実を
受け止めるところからスタート
しなければなりません。
現状を否定したところから始めると、
どうしても現状に即していない理想
ありきになってしまって、
現状の中にあるカギを拾うことも
できなくなってしまいます。
自身が生きる現実というのは
自分そのものだと私は思っているのですが、
現実を否定することは自分を否定することと
イコールです。
私たちは、しばしば自分を否定することで
より良い自分になろうとしますが、
実はそれは自己分離を生み、
自らのパワーを失うことになります。
感情解放ワークでは、
否定した自身の側面を受容することで
再び自身のパワーを取り戻すということを
よくやるのですが、
自己否定をすればするほど、実は
私たちは無力になっているのですね。
ということは、
現実が自分自身であるとするならば、
現状を否定すればするほど、
それもまた私たちを無力にする
とも言えそうです。
かと言って、ひどく耐えがたい現実を
肯定しろというのではありません。
ただ、否定しないで注意深く、
丁寧にそれを生きたときに、
何か別の扉が開くのではないかと
思うのです。
現状を変えるカギは、
現実に深く触れたところにしか
見つけることはできない。
そんな風に思うのです。