近頃、セッションなどで
心の奥に埋もれていた「自分は無能である」
という恐れや「無能感」といった感覚を
掘り起こすケースが続きました。
誰しもの心の中に、こうした恐れや感覚を
持っているものだと思いますが、
当人たちにしてみれば、これは
「絶対に知られてはならない重大な秘密」
だったりして、
それを認めることもできなければ、
ましてや知られるなんてことが起こったら
まるでこの世の終わりのように、
自分が消えてなくなってしまう!
と信じていたりします。
それはもう、必死でこの「事実」
に抵抗しまくります。
え?何それ?無能ってなんだっけ?
誰のこと?私は関係ないし~。
私は無能じゃないですよ!
ほら、こんなに色々できるでしょ!
周りのみんなもそう言ってます。
だから違うんです!
私が無能だって!?
そんなことは絶対に認められない!
断固として拒否する!!!
ってな具合です。
それが故に、自分の有能さを証明
し続けなければいけなくて、
能力以上のことをやろうと頑張り、
素直に人に助けを求められなくなって
抱え込み、潰れてしまう重圧に
酷く苦しんでいたりします。
そうして結局、自身の無能さに
打ちひしがれる、という負のループに
はまってしまうんですね。
無能さを拒絶・否定したがゆえに、
かえって無能さを思い知るという
パターンですが、
これは
「否定・拒絶したものは
受容されるまで繰り返し
差し戻される」
という法則があるからです。
だから、そんな思いに二度と
打ちひしがれたくない!と思うのなら、
自分の無能さをしかと思い知って
謙虚に受け止め、受容することが
絶対に必要です。
ここを中途半端に反省したつもりで
次に進もうとすれば、また容赦なく
無能感に打ちのめされるでしょう。
頭でわかるだけじゃダメなんですね。
自分が無能であるがゆえに感じる
惨めさや悲しみ、悔しさ、敗北感、
いたたまれなさなどなど、みんなひっくるめて
味わい尽くすのです。
無能であることを否定していると、
これらは自分の中にあったとしても、
蓋をされて対処されないまま無意識に
沈められてしまいます。
あるのに、無いことになってしまうんですね。
そうして閉じ込められたこれらの気持ちの
カケラたちは、「見捨てられた、
誰も助けてくれない、自分は価値がない」
と思います。
彼らの悲しみや絶望感が、私たちの
日常の気分に滲みだしてきて、
汚染するんですね。
特に何もきっかけも思い当たらないのに
悲しくなったり生きている価値がないと
思ってしまうのは、こうした理由からです。
心当たりがありますか?
だから、否定・拒絶した自分の側面や
気持ちをちゃんと認め、受け止めてあげないと
いけないんですね。
無能感に打ちひしがれている人は、
有能であろうと頑張ることが必要なのではなく、
まずはできない自分でいることの
あらゆる苦しみを、しかと受け取ることが
先決です。
ある意味、これはパラドックスですね。
一番やりたくないことだと思います。
でも、これまでを振り返ってみて、
有能であろうと頑張り続けてきて、
あなたはどれほど楽になれたでしょう?
多分、どれだけ有能になっても、
それを達成した途端に、無能感は
追いついてきたのではないでしょうか。
繰り返しやって来る、自身の無能さを
思い知らされる出来事というのは、
あなたにそれを在るがままに
受け入れるように、という
メッセージなのです。
自身の無能さを拒絶する人は、
他者の無能さを許すことができません。
激しく糾弾したり、排除しようと
したりします。
それは、目の前のその無能な人が、
自身の無能さの要素をトリガーするので
気持ちがざわざわして落ち着かないからです。
また、あなたのその態度は「鏡の法則」を
通してあなた自身にも返ってきます。
すなわち、誰かがあなたをその無能さ故に
糾弾し、排除しようとするわけです。
あなたが激しく無能さを嫌うほど、
誰かもあなたの無能さを
激しく嫌うでしょう。
逆に、あなたが自身の無能さを
在るがままに認め、受け入れたなら、
周りもあなたの無能さを受け入れます。
自分が無能だったら、周りは自分を
いじめ、責め立てるだろうと思うのは、
あなたが自分に対してそうしているからです。
拒絶していた側面を受け入れるたびに、
私たちは自由に、世界は優しくなります。
自身の生きる世界が厳しいと感じるのなら、
どうぞ在るがままの自分に優しく
あってください。
あなたの生きる世界が、優しさと
思いやりに満ちたものでありますように。