感情解放ワークを続けてきて、
私の現実も以前の自分からしたら
想像もできないくらい穏やかで
幸せになっているのですが、
そこそこ幸せを感じるようになってくると、
何だか満足してしまって以前ほどワークを
しなくなるってことも実際にあったりします。
すると「ちょっと忘れちゃいませんか?」
と肩をたたく出来事が起こってきます。
「いや~、忘れてたわけじゃないんですけどね、
ほら、ちょっとは息抜きしたいっていうか、
良い時も味わいたいっていうか…(^^;」
とかなんとか言いながら、
てへへ、とまたワークに戻っていきます。
そんな肩タタキで思い出させられた
守られてない感じとか現実に対する不安や焦燥感
などをまたじっと辿っているのですが、
この気づきと同時にやってきたサインが、
まさにこれらの感情の根っこに関係するもの
だったことに気づきました。
それは、
「自分の人生を本気で信頼し、委ねてますか?」
って問いかけだったんですけれど、
いや~、私、できてませんでしたね~!
それまで自分は結構イケてたんじゃないかと
思ってたんですけれどね、でもまだまだでした。
自身の深奥にいます神なるものから
差し出される人生を、丸ごと信頼しきって
受け入れられてはいなかったんですね。
だから人生に対して恐れがあるってことに、
気づいてしまいました。
自分自身に深く向き合うほどに、
未熟な自分、できていない自分が
増えていくものですね。
でも、だからと言って決して後退しているとは
思わないですけれど、むしろ伸びしろがどんどん
増えていく感じかな。
面白いものです。(^^)
話は戻って、
委ねる、サレンダーっていうテーマは
これまでにも何度も取り組んできたし、
書いても来ました。
でもこれ、頭の概念じゃ決してできないですよね。
神というものに触れずに信じたら、
それは妄信であり、自身の恐れに向き合うことからの
逃避であり怠慢だと思います。
委ねるためには、委ねる相手をしっかり見て
触れていなくては、本当に安心して全託なんて
できないです。
神は決して遠いところにいる恐れ多い高尚な
存在なのではないと私は思っています。
むしろ、もっと近づいて身近に感じ、
根付いて生きるべき基盤のようなものと
感じます。
親しく触れ、実感をもってリアルに
人生を支えてくれるもの。
それなのに、私たちの多くは
誰かが提唱した概念としての神を実感もなく
頭で信じたり疑ったりしながら遠巻きに
それを眺めています。
本当に触れてはいないので、
その概念が正しいのか違うのかも、
自分ではわからないんですね。
そして、敢えてそれを確かめて知ろうと
することもしない。
あまりにも、神は高尚なもので、ごく一部の
限られた人のためのもの、とでもいった
概念が浸透しすぎているからでしょうか。
おとぎ話の存在が実在するかどうかなんて、
目の前の現実にあくせくする私たちには、
どうでもいい話なのかもしれません。
けれど、神は概念ではありません。
リアルに私たちという存在の基盤となっている
無くてはならない何かです。
それを見失っているからこそ、
こんなにも毎日が不安でたくさんのことから
自分を防御しなくてはならなくて、
あまりにも膨大なその仕事量に、無力感を感じて
苛まれているのです。
今まで背を向け続けてきたそれに、
今この時、向き直ってみてはいかがでしょうか。
ひとそれぞれ、そのことがとても苦しい人も
あるでしょう。
でもその苦しさを引き受けて、吐き出し、
生き切る必要があるのではないでしょうか。
本当に神に向き合う前に、自身のこうした
苦しい思いにまず向き合う必要があったりも
するわけです。
それができて初めて、リアルな神に向き直る
ことができます。そして、本当に神は
いかなる存在なのかに触れるのです。
それまでは、本当に委ねることは
できないでしょう。
神は良い存在で間違いないらしいから信じたい。
でも、本当に大丈夫なの?と、信頼と疑いの間を
行ったり来たりします。
妄信には、足を付けられるような
しっかりとした基盤はありません。
だから、疑う自分を責めて疑いを抑圧し、
なんとか信頼に繋ぎ留めようとしたり
するわけです。
でもその行動こそが、神の概念の不確実性を
如実に証明しているともいえるでしょう。
神は自分を本当に預けるに値する存在なのか。
深く深く深く、問いかけ、向き合い、
触れていきたいと思います。
今週のテーマはこちら。
内なる神に自身を全託出来るか、深く問うよう最高最善に働きかける
参加される方は、
「無料遠隔ヒーリングの受け方」を
ご覧になり、 ご理解のうえ
2月14日(水)17:00までに
メールまたはメールフォーム
にてお申し込み下さい。
同日20:00より順次働きかけを行っていきます。