たまに、感情解放ワークのやり方などで
様々な方からメールでご質問をいただく
のですが、
質問のされ方で、その方の在り様が
様々に見えてきます。
その方がその質問をするまでに、
どれだけ自分なりに努力して取り組んだか、
あるいは、ほとんど何も手を付けない状態で
質問をしてきたか、とか、
その人の意識がどんなポジションにあって、
どこに気づいていないのか。そしてそれは
どうしてそうなっているのか、とか。
また、その人がどんな風に意識を使い、
現在どんな選択をしている状態なのか、
などなど。
一見、一生懸命やっているように見えて、
実はものすごく依存傾向があったり、
救いを求めているようで、何ものも
受け入れない頑なさが見えたり。
私たちのあらゆる言動には、
自身の中にあるものが多かれ少なかれ
映し出されるものですが、特に質問は、
その傾向が顕著に出ると思います。
私は常々、正しい答えが欲しければ、
正しく問うことが必要だと思っています。
自分が欲しがっている「正しい答え」は、
自身が発する質問の中に、既にあるんですね。
だから、正しく問わなければならないのです。
では何が「正しい」問い方なのか、
というところですよね。
質問する側が、自分でも何を知りたいのか
わかっていないとき、必然的に問いの焦点は
ぼやけ、曖昧な答えしか得られなくなります。
ということは、質問する時点で問う側は、
自分が何を欲しているのかを
明確に分かっている必要があるということです。
ですから、
質問する前にここを明確にする責任が
質問者にはあるわけですね。
訳が分からないまま投げかけられた質問に
対して、私はしばしば相手の意図を
明確に浮き上がらせるための質問を
重ねて返すことがあります。
そういうとき、私は何がわからなくて
どう知りたいのかという意図を明確にして
問います。
このように、答えを得るための質問では、
自分は何をわかっていないのか?
それをどのように知りたいのか?
を整理しながらすると、
迷走することがぐっと少なくなるでしょう。
それでも、自分が何をわかっていないのかが
わからない、ということもあると思います。
そういうときでも、そこに至るまでの
経緯と現状を伝えれば、回答する側も
それなりに応えられるものがあると思います。
質問を受ける側としての希望を言えば、
最初から正解だけを求めて、
自分で努力する手間を省くための
質問はやめてほしい、ということでしょうか。
無駄な労力をかけるのを避けるために
コツを聞くのはいいのですけれどね、
丸投げはだめでしょ。(^^;
現代日本人は、均質な正解を導き出す訓練を
学校教育の中で叩き込まれているので、
間違うことを恐れたり、自分の考えをじっくり
突き詰めていくことが苦手な人が多いかな
という印象が私にはあります。
今は本当に時代の流れが速いので、
何か一つのことに時間をかけるということ
自体に、ある種の恐怖を感じているのでは
ないかとさえ感じます。
少ない労力でできるだけ速く最大限の成果を
出すことに価値を置く社会に生きている
にしても、
そのやり方で自分の人生のすべてを
染めてしまっていいものか、と
少なからぬ危惧を抱きます。
とは言え、目先ではなくもっと長期的な視野で
ものごとを見よう、と言う人自身が、どれだけ
「長期的な視野を持てる在り方」を体現して
いるのか、と自身を含めて思います。(^^;
そういう視野を持つということは、
目だったり頭だったりだけでできるような
ものではありません。
意識や体の使い方や呼吸から気づきの感性まで、
全部つながって、その視野が生まれているんです。
そう考えると、それは自身の在り方のすべてを
通して見ることです。
自身の在り方のどこまで意識を巡らせ、
責任を持っているかということがそのまま、
視野の内容を決めると言えるでしょう。
そして、そういう在り方をするには
それを支える基盤だったり軸や核となるものに
しっかりと拠っていなければならない、
とも思います。
これらは、概念ではありえないですね。
概念には、それを支えるだけの力はありませんから。
まごうことなきリアルなものにしっかりと
根を下ろしていないと、結局机上の空論のような
地に足のつかないものになってしまうでしょう。
この、まごうことなきリアルなものに
根を下ろしていく作業は、決して一朝一夕に
成し得るものではないと私は感じています。
この部分に関して、手抜きや横着はしないように。
近道はないのです。
そもそも、近道を探してしまうような在り方では
それに根を下ろすなんてことはできないでしょう。
プロセスだと思えるものが、本当は目的地
そのものだということの真意がわかっていないと、
いつまでも通過点を生きることしかできません。
Carpe diem
積み重ねていく今を生きる喜びを味わいましょう。