お正月も明けてしまいましたね~。
サロンも、今日から始動です!
ご挨拶くださったみなさま、
お一人お一人にご返信は差し上げられませんが、
今年もどうぞよろしくお願いします。m(__)m
さて。
昨年から今年の抱負は
「プレゼンスをより深めていくこと!」
とコミットしていますが、同時に
「探究者」ではなく、「体現者」で在ろう
という思いが強く湧いてきています。
私が師と仰ぐレナード・ジェイコブソンが
「仏教徒になるのではなく、仏陀になりなさい」
と言っているのと同じことですね。
概念ではなく、「リアルにそれを生きること」
を意識していきたいと思います。
私が通っているヨガのガネーシャ・ギリ先生は
よく、「説得力のある動き」ということを
言われます。
私はヨガは先生に習うのが初めてで
3年にも満たないキャリアですが、でも
プレゼンスの教えを実践していると、
すごくよくわかることがあります。
それは、意識がマインドに入った状態で
アーサナをすると、「説得力のある動き」
にはならないんですよね。
つまり、意識の状態が動きの一つ一つ、
存在全体を通して表現されるものに
如実に表れるのです。
もちろん、体の使い方などのテクニック的な
ものも重要だと思います。
けれど、そのテクニックのベースには
やはり意識があるわけで、意識の使い方が
粗ければ、繊細な体の使い方はできないでしょう。
私は職業柄、普段から人の意識の状態を
見ることが習慣になっていますが、
ヨガのクラスでペアワークをするときも、
やはり意識を中心に見ています。
相手の方がどこでどんな風に意識を使って
いるのか、あるいはどこで意識を途切れさせる
傾向があるのかなどを見ると、体の使い方
がそうなっている理由も、何となく
わかったりします。
ヨガのクラスの中ではやりませんが、
なぜ意識をそのように使っているのかを
見ていくと、その人の今現在の在り方から
魂の記憶の痕跡までたどっていくことも
できます。
これが普段、感情解放ワークでやっていること
そのものなんですけれどね。
意識、体の使い方、在り方、エネルギーは
どれも連動しているので、どこにフォーカス
しても、読み方さえわかっていれば、
色々なことが見て取れるでしょう。
意識がプレゼンスにない状態では、
エネルギー的にも色々なレベルでの分離が
見られます。
分離しているからプレゼンスにいられなくて
結果、マインドの世界に入ってしまいがち
になるわけですが、
なぜ分離しているのか?という命題が
ここに生まれます。
なぜ、統合されたプレゼンスの状態で
いられないのか。
そこに、未完了の感情のエネルギーが
引っ掛かっているということが、多分
とても大きな要因としてあるんだろうと
思うのです。
実際、感情解放ワークで未完了の感情の
エネルギーが統合されると、このズレが
修正され、より深くプレゼンスに入れる
ようになります。
だから私は、プレゼンスにない人や
微妙に分離した在り方をしている人をじっと
見ていると、自然とその要因となっている
未完了の感情のエネルギーに意識が向くのです。
たとえて言うなら、靴の中に小石が入って
痛くて普通に歩けない状態の人を見れば、
靴を脱いで小石を取ればいいのが
当たり前に分かる、みたいな感じです。
そういう在り方になっているには
そうで在るなりに、必ず事情があるのです。
故なくそのようになっていることなど
ありません。
なぜ?に答える「事情」を知るには、
マインドで考えてはいけないんですね。
感情解放ワークでも、「なぜ?」と問うて、
「え~っと」と考えだす人は多いですが、
思考から出た答えはすべて「捏造」です。
正しい答えは「考える」のではなく、
「聴く」ことによってのみたどり着けます。
このニュアンスの違い、わかっていただける
でしょうか?
先日、私のセルフワークの記事をアップしましたが、
http://healing-gate.com/blog/2018/01/02/kannjyoukaihou-206/
どうしてここまで詳細な過去世の描写が
できるのかと言えば、これは考えて導き出した
ストーリーではないからです。
すべて、なぜ?と問いつつ、
じっと感覚を感じて聴き取ったところから
現れてきたものです。
スピリチュアルな感覚を五感の表現で描写
するのはなかなか無理があるのですが、
私にとってスピリチュアルな感覚で
読み取る情報は、聴く、見る、感じる、臭い、
そしてほとんどありませんが味の感覚は
境目のない状態で読み取られます。
だから「感じる」も「聴く」も一緒なのです。
これらを読み取るときに共通しているのは、
自分の意識を波のない湖面のようなフラットな
状態にして、そこに映るものを受け取る
ような感覚ですね。
わかろうとしてジタバタしていると、
これはできません。
プレゼンスで在るとき、意識は自然と
上記のような状態になるので、差し出されている
あらゆるサインに、必然的に気づきやすく
なります。
リアルな世界と、
無言のうちに深い対話がなされ、
理解と応答が生まれています。
私は何を本当に体験しているのか。
概念ではなく、リアルな世界を深く味わい
生きていきたいのです。
そのとき、私は神の国を生きています。
神と一体の我を体験しています。
私は、そんなプレゼンスを体現していこうと思います。