わかっちゃいるけどやめられない
ってこと、ありますよね~。
お酒やたばこ、甘いものなどのし好品から
人間関係の依存、様々な悪癖。
特に私たち現代人の誰しもが持っている
最たるものは、思考中毒でしょうか。
これをやめればすっきりする、
心身の健康にも良いことはわかっているし、
人生も良くなるというのもわかっている。
けれど、気持ちは思考でスパッと
きれいに割り切れるものばかり
ではありません。
だから葛藤してしまうのですよね。
私も最近、断捨離した方がいいかも、
ということがあって、割り切れずに
ずっと悩んでいました。
現在の状況から考えると、明らかに
持っていてもずっと使わないだろうし
実質的にも心理的にも負担が日々重く
なっていて、気持ちも沈みます。
でも、いまだに持ってるんですね~。
なぜそんなに気の重くなるものを
断捨離できずにいまだに抱え込んで
いるのかというと、
それを手放したら損をするかもしれない
という恐れがあるからなんです。
「損」って、嫌な言葉ですよね。
誰だって損したくない。
逃した魚は大きかった!って思うと、
がっかりします。
そのがっかりを味わいたくなくて、
気持ちが重くなるものを手放せずに
いるわけです。
明らかに馬鹿なことやってるな~と
思うのですが、それでも
踏ん切りがつかないんです。
これが未練ってやつですね。笑
これを手放すには、恐れに対処しなくちゃ
いけないんだろうな~と思ったので、
じっくり見てみました。
実は、えい!っと踏ん切りつけて
スパッと行くのもいいのですが、
こういう考察のプロセスを楽しみたい!
というのもあったりします。(^^)
まぁ、性分でしょうね。
さっさと捨ててしまったら、そういう
考察の過程で得られるはずの気づきを
逃してしまう!それは惜しい!
と思ってしまうわけです。笑
転んでもただでは起きないぞ、と。
で、私の恐れは、手放した後で
「やっぱりあのとき手放さなければ
よかった~!」という後悔をしたくない、
がっかりしたくないということでした。
まぁ、後悔も「感情のふた」ですから、
がっかりする、というあたりが
痛みの感情ですね。
何にがっかりしているのかというと、
それがあれば得られたであろう安心が
ないことにがっかりしているわけです。
安心がない状態。この時浮上してくるのが
ワークでいうところの「核心の痛み」
になります。
根本的に、私はこれを恐れているがゆえに
苦痛の種になっているものを手放せずに
いるのです。
核心が明確になったところでじっと、
その痛みを受け止めてみました。
それがなくなったら、起こるであろう
不安や戸惑い、混乱などが噴き上がって
きます。
そうしてある程度受け止められたら、
もう一度それを失うことを思ってみると、
案外大丈夫かも、と思えるように
なりました。
よく、チャンスの神様は前髪しかなくて
後ろ髪がないから、チャンスが来たら
すぐにつかまないと、逃げて行ってしまう
とか言いますね。
でも、つかめない神様なら、そのときの
私には必要なかったんだとも思えます。
私に必要なものは、今この瞬間にある。
そのことを本当に自身の真実として
生きないと、また同じように揺らぎ、
迷ってしまうでしょう。
今回のことは、私自身の在り方の選択を
もう一段深く迫っているように
感じられました。
振り返ってみれば、私はまだぜんぜん
プレゼンスを信頼していませんでした。
頭ではそれが最高のものだと思っていても、
実際目の前に危機と思えるものが見えたとき、
やっぱりプレゼンスを信頼するよりも、
これまで通りのやり方をしてしまっています。
同じことを繰り返していてはいけない。
本当に決意しなければ。
なぜ今までそれができなかったんだろうと、
恐れに飲み込まれることを容易く許して
いたからだろうと思います。
意識の軸足をしっかり立てるには、
無意識のままではできません。
私たちの意識は苦痛にとても弱く、
苦痛が生じると容易に浮足立ってしまうのです。
その状態では方向転換ができません。
しかも、そんなときにその苦痛を取り去って
くれる期待を抱かせるものが目の前に
やってきたら、容易に飛びついて
しまうでしょう。
それが、「心の隙」というやつです。
私が師と仰ぐレナードは、
プレゼンスにいることが何よりも
最優先でなければ、あなたは目覚めることが
できないだろうと言います。
明日の心配をするよりも、
今の苦痛を取り去るよりも先に、
まずプレゼンスにいることを選択できるか。
心の隙をがっつり突かれながらそれをするのは、
言葉でいうほど簡単ではないですね。
少なくとも、私にとっては。
今この苦しみをすぐに取り去って
安心させてほしい、
と思ってしまいますから。
今一段、深くプレゼンスに決意していきます。