何となく周りのみんなもそう言っているし、
そんな風にも思えるから、きっとそうだろう
って疑いもなく信じていることが、
誰にでもあると思います。
実際に自分で確かめたわけではないけれど、
あたかもそれが当たり前の大前提のように
現実が構築されているようなこと。
自分でもそうだと思って信じてはいるけれど、
でもたまに、(頻繁に?)そうではない
出来事を体験して、
「みんなそう言ってるけどさ~、
多分私もそうなんだと思うけれどね、
でも私はそういう体験、してないんだよね~」
って内心思いつつ、疑いの気持ちが
ムクムクと育っていっている。
にもかかわらず、周りのみんなはその
「大前提の現実」をさも当然のようにして
過ごしているから、自分の疑いを出すのは
気まずくて、黙って悶々としている。
そのうち、
「法則だ、神さまだって言ったって、
みんな私だけは素通りしていくのよ!
私には幸せなんて来ないんだわ!」
っていう怒りが爆発して、
拗ねてしまう。
「もう信じることなんてやめよう!
ばかばかしい!」
と、一生懸命信じてきたそれらに
背を向けて去っていく。
そんなことが、ないでしょうか。
真実は、「自分が体験したこと」だけです。
「信じもの」ではない、というところが
ミソですね。
たとえば、
「神は実在する」と誰かが言ったとします。
あなたは「へぇ~、そうなんだ。
神さまはありがたいものだし、きっとどこかに
いるんだろうな」と思ったとします。
この段階では、神はあなたにとっての真実
ではありません。
あなたはただ概念に触れただけで、
まだ神を直接体験したわけではないからです。
神の概念について論じるならできるでしょう。
けれど、「神は実在する」ということが
あなたの真実になるには、あなたが直接、
神を体験しなければなりません。
また、「自分と同じ要素を持ったものが
自身の現実に引き寄せられてくる」と、
誰かが引き寄せの法則について語ったとします。
あなたは「へぇ~、そういうことがあるんだ。
でもよく考えてみれば、確かにそういうことが
これまで何度もあったな」と体験していれば、
それはあなたにとって、真実です。
さらに、「Aさんって、とても優しくて
素敵な人よね!」と友達が言っていたとします。
けれど、あなたにとってAさんは優しいどころか
いつもあなたに難癖をつけて意地悪をしてくる
嫌な人だったとしたら、あなたの現実において、
Aさんは意地悪だというのが真実になります。
けれど、
ものごとにはもっと深いレベルの認識があって、
到達した認識のレベルによって、
あなたの「真実」が、一瞬にして
ひっくり返ってしまうことがあります。
意地悪なAさんの例を見ていくと、
あなたにとっては毎回、ネチネチと細部を
指摘してくる面倒で意地悪なAさんですが、
忍耐強くAさんの指摘を受け止めて、
その言わんとしていたところに意識を
向けていたら、
なぜそこまでAさんが細かく妥協せずに
指摘していたのか、自分の今のやり方だと
とんでもないことになっていたかもしれない
ということに、あなたが気づいたとします。
その気づきが訪れた瞬間、今までの
「意地悪」は、ただの嫌がらせではなく、
本当に自分が気づかなければいけないことを
忍耐強く指導してくれていた「愛と思いやり」
だったと、認識が変容するでしょう。
同じ出来事なのだけれど、
その意味合いが全く違ってしまうのですね。
あなたは今、どんな「真実」を生きていて、
どんな「概念」を持っているでしょうか。
「真実」と「概念」は同じではありません。
何か新しいことを学んだ時、
多分多くの人は、「概念」から入っていく
でしょう。
そうして、その「概念」を反芻しながら、
実践を重ねていって、血肉となったとき、
初めてそれがあなたの「真実」になります。
「概念」を「信じている」とき、
それは容易く揺らぎ、不信と迷いの間で
あなたは彷徨うかもしれません。
けれど、実践の中で概念が指し示している
先に在るものをあなたが実際に体験したら、
もう信じる必要はないのです。
真実は、信じる余地のないものですから。
自分は人間であるということを、
あなたは「信じている」でしょうか?
多分信じてないですよね。笑
分かっているからです。
学びを概念で終わらせてはいけません。
本当に体験し、血肉となっていなければ、
何度でも学びは差し戻されるでしょう。
宇宙は、そのあたりのことは非常に
厳密です。
表面上は取り繕えても、
あなたの放つバイブレーションは
全くもって、誤魔化しの余地がありません。
学びが疑いの余地なく、自身の真実に
なったかどうか。
よくよくハートに問いつつ
歩まれますように。