昨日は感情解放ワークショップでした。
お集まりくださったみなさま、
ありがとうございます。(^^)
長~い間、わだかまっていた気持ちが
ゆるゆると溶け出し、
苦悩していたお顔がほろりと緩んでいく
瞬間に立ち会わせていただくのは、
何度体験してもいいものだな~と感じます。
過去世の記憶も普通に出てきたりしますが、
そういうものが統合に向かっていくとき、
何百年かぶりに和解に向かって
動き出していく高揚感みたいなものが
ありますね。
山のごとく動かなかったものが動くって、
それは魂にとっても奇跡のような
凄いことなんだと思います。
感情解放ワークをしていると、
そんなことがたくさん起こってきます。
このブログを読んでくださりながら
自習されている方もいらっしゃると
思うのですが、
このワークはただの解放メソッド
というよりは、「在り方」そのものです。
普段から起こってくる出来事をいかに捉え、
いかに応答していくか。
自身の内面に何が起こっていて、
今自分はそれに対してどう在るのか。
それらを常に意識できるような在り方を
修練していくものなので、解放すること
だけが目的ではありません。
逆に、解放ばかりに意識が向いて、
現実が変わって楽になることばかりを
求めていくと、見失うものがあります。
在り方が整うから結果的に、解放が起こり、
現実が変わっていくのです。
解放しているつもりで現実が変わって
いないのだとしたら、在り方がどこか
違っているというお知らせかもしれません。
最も受け取って応答しなければいけない
ところから目をそらし、スルーしているのに
「やっているつもり」になっては
いないでしょうか。
思うようにならない現実と戦っているとき、
その出来事が差し出しているメッセージを
受け取れているかな?と謙虚に問うて
いるでしょうか。
この世界は、いい子にしていればご褒美を
もらえる、信じる者だけが良い目を見る
というようなものではありません。
なんとなくわかったつもりでスルー
しているとき、人生は容赦なくその誤魔化しを
はぎ取っていくような道筋に導いて
いくことがあります。
誤魔化しがはぎ取られていくなかで、
その人は驚き、パニックになって人生の無常を
呪い、深く絶望するかもしれません。
人生は確かに愛に満ちていると私は感じます。
けれど、それと同じくらいに信じられない
くらいの冷酷さもありますね。
そのどちらも人生の真実であり、人間目線の
善悪で罰するような、表面的なところで
見ているとしたら、確かに失望することも
あるでしょう。
でも、その容赦ない冷酷さの中に、もし
信じられないくらいの愛を見ることが
できたなら、
その冷酷さの意味がわかるでしょうし、
千年の恨みも一瞬で溶けてしまうでしょう。
逆に言えば、それがわかるまで、
試練は続くかもしれない、ということです。
自分が何に気づけばいいのか。
わからずにいるのだとしたら、中途半端に
拗ねて背を向けるのではなく、
本気で人生に向き合い、憎しみを吐露し、
それが答えるまで叫んでみたらいいと思うのです。
私たちの多くは、思う通りにならないと
そこまでしないでさっさと背を向けて
離れていきますね。
その真意を深く、奥の奥の奥まで見ることは
ほとんどしないでしょう。
ただ辛い状況を黙って耐え忍べと言っている
わけではありません。
確かに忍耐はとても大切な要素ですが、
その忍耐強さとともに、識別する目と
気づきの感受性を磨くことも大切です。
自分が何に気づけばいいのかという視点が
本当に分かっていないと、
一生懸命良い子にしていたのに、
こんなに頑張っているのに、なんでこんな
酷い目に合わなければいけないの!?
と容易く不信に流されてしまうのです。
人間、調子のいい時よりも、辛い時の方が
真価を試されると言いますよね。
それまで自分が積み重ねてきたものが
どれだけ血肉となっているか、
その時わかるんですね。
辛い冬の時期に、
私たちはぐっと深く心の根を張ります。
そこで腐るか、見えない力をつけるか。
意識を散漫にしないで、
大切なところに集中させましょう。
どんなときにも、それなりの過ごし方が
あるものです。
人生のすべての四季で、
自分を磨けるように。
この日の一歩がかけがえのないものだったと
気づく日のために。
恩寵が、あなたとともにありますように。