先日、なんだか疲れがどっと出て、
色々メンテナンスをしても、
なかなか抜けませんでした。
ということは、気づかないうちに感情を
溜め込んだかな?と意識を向けてみると、
何年も前の母とのやり取りの一場面が
出てきました。
些細と言えば些細なことなのですが、
その時の私は激怒の感情が噴き出してきて、
それをぐっとこらえていました。
なぜそんなにも激怒したのか、自分でも
不思議なのですが、気にならない人なら
何の問題もなく「あら、そう?」と言って
やり過ごす程度のことなのです。
私はいったい何に反応していたのか?
さらに掘り下げてみました。
その時母はなぜか突然、私がしてほしくない
ことをして、私がやめてほしいと言っても
不思議なくらい頑として聞き入れませんでした。
突然のことで、なぜ母がそんなことをするのか
さっぱり理解できず、ただ怒りだけが
噴き上がっていくのを感じました。
そのときはぐっと堪えて私が折れたのですが、
何年も忘れていたこの場面のことが、
背中の重ダルさに意識を向けたら
出てきたのです。
なぜこの出来事は起こったのか。
さらに掘り下げていきます。
母にとってその行為は、自分のわがまま
というよりも、私のためを思ってしたこと
のようにも見えました。
自分のしていることの正しさを微塵も
疑っておらず、私が本気で「嫌だ」と
言っているのに、全くその訴えを聞く
余地がありませんでした。
分厚く頑丈な壁のように動かないその態度に、
私は極度の閉そく感と言い知れぬ苦痛を
覚え、その苦しみは母への憎しみに
転じていきました。
こんな苦しみを平気で私に与える母に。
それを私のためだと言って正当化できる
その感性に。
底知れぬ怒りと憎しみのエネルギーが
湧き上がってきました。
ちなみに、こんなドロドロしたものを
書いてますが、あくまでこれは私の側から見た
ストーリーであって、母の現実がこうである
というわけではありません。
あくまでこれは、私の感情解放ワークの
一環として、自分の中に在るものを
プットアウトしているだけです。
そしてまた、かつて感情解放を始めた当初より
ドロドロした感情もずっとライトな感触に
なっています。
でもまぁ、こういうものも、今でも
出てくるときは出てくるんですね。
出てきても私はそれを恐れたり、「またぁ?」
とうんざりすることはほぼなくなりました。
ワークを始めた当初や、少し経った頃は
そんな風に思ったこともよくありましたが、
感情的な苦しみの感覚が変質しているのと、
出てきても何ら問題はないので、
恐れなくなったということなのでしょう。
で、ワークに戻ります。
私がこんなに苦しんでいるのに、
母は自分の正当性を行使する。
この構図をさらに読み込んでいくと、
母は頭で正しいと思ったことをしていて、
感じているわけではない。
頭の中の信念だけを見ていて、
実際に私が苦しんでいる現実はまるで
見ていないのでした。
もし母の信念が正しくない、としたら、
母は何を信じたらしいかわからなくなり、
とてもショックを受けるでしょう。
じっと母の混乱を感じながら、
それはまた、私自身の混乱でもあることを
感じていました。
母がこのストーリーの中で私にしたことは、
鏡の法則を通して、私が私自身にしていること
でもあります。
私は母に、
あなたが私にしてきたことによって、
どれだけ私の大切なものを踏みにじられてきたか、
その悲しみと悔しさがわかるだろうか
と言いたいと思いました。
そしてこの言葉は、
私が私自身を踏みにじってきたがゆえに、
内なる自分から、私に向けられた言葉でも
あるのです。
「内なる私」は、私が頭で
「これが良いに違いない」と信じたことを
自身に強要し、そのことがどれだけ
自分を傷つけてきたのか、
私がまるで気づいていないことに
深く怒っているのでした。
私の声を微塵も聞き入れる余地がない
母の姿は、そっくりそのまま、
私自身の姿でした。
信じていた正当性を手放して
相手を尊重したときに、どうなるか
イメージしてみると、
今まで恐れていたストーリーではなく、
自分が思っていたのとは違うプロセスで、
とても素敵な方向へと流れていくイメージが
浮かんできました。
恐れに駆り立てられなければ、
こんな可能性があったんだ。
それを受け入れてみよう。
そんな風に思えました。
というわけで、今週はこの「正当性」を
テーマに取り上げてみます。
自身の信じた正当性を手放し、別の可能性を受け入れるよう最高最善に働きかける
参加される方は、
「無料遠隔ヒーリングの受け方」を
ご覧になり、 ご理解のうえ
11月8日(水)17:00までに
メールまたはメールフォーム
にてお申し込み下さい。
同日20:00より順次働きかけを行っていきます。