追いかけると逃げていき、
追いかけるのをやめると、
いつの間にか側にいる。
恋愛の話じゃないですよ。
プレゼンスのことです。
今ここに居るって、レナードは簡単だって言うけれど、
マインドのおしゃべりが片時もやまない
凡人の私にとっては至難の業です。
私にはどうしてもそれが難しいのだと、
レナードに訴えたことも何度もありますが、
彼は断固として取り合ってくれませんでした。
グルとしては、それが正しい対応ではあると、
頭ではなく実感として、後に感じたことがあります。
何かの話の流れで(それが何だったか覚えていないのですが)、
クライアントさんと話していた時にハッと気づいたのです。
今のこの自分の対応は、あの時のレナードと一緒だと。
恐らく、そのように私に対応されたクライアントさんは、
あの時の私と同じように、途方に暮れ、絶望的な気持ちに
なったかもしれません。
レナードの教えに初めて触れて以来、毎年彼に会いに行き、
その度に気づきや、想像を絶する体験をしたことも
1度や2度ではありません。
けれど回を重ねるにつれて、ますますプレゼンスから
遠ざかっていくような虚しさや無力感、絶望、惨めさが
深くなっていくように感じることもあります。
まぁこれも、頭では自身の魂の奥深くに埋もれていたものが
ただ浮上してきているだけである、ということはわかるのですが、
ややもすればその絶望の中に引き込まれそうになることも
しばしばです。
浮上している絶望に気づき、圧倒されそうになりながら
それを受け止める、ということができる時もあれば、
浮上しようとする絶望に慌てて蓋をしたり遠ざかったりして
触れないように、無意識に逃げているときもあります。
その無意識の逃避の一つなのか、もう目覚めやプレゼンスを
ともめるのをやめよう、と半ば諦めの気持ちになって、
ぽ~んとそれを放り投げている今日この頃です。
それでも現実は一時も止まることなく、それなりに
進行していきます。
これもまた自分。
そう思いながら、再び理想と現実のギャップを埋める格闘に
戻っていきます。
けれど、どんななかでも何かどこか、少しずつ
違った意識の感触を感じたりします。
追うと逃げていき、追うのをやめるとすぐ側にいる。
ツンデレなプレゼンスにどう接していいか、戸惑いを隠せません。
以前、「もう私にはこの教えを実践するのは無理です。
これ以上は一歩も進めません」と泣きながら
神に祈り訴えたことがありました。
そうしたら次の日に、神は私にだけ分かる方法で、
まぎれもない明らかな印を送ってくださいました。
それはそれはもうびっくりです。
否定のしようもなく、気のせいにもできないような
確かな印だったので。
「そのままでいいから、歩み続けなさい」
そう促されたように感じました。
それから、少し肩の力を抜いてレナードの言う
「穏やかに覚えている」くらいに、やや諦めモードを
交えながら落ち着くようになりました。
プレゼンスに対する絶望も無力感も惨めさも、
自分なりの努力の積み重ねがあるからこそ、
それが身を結ばない現実を前に、より深くなります。
むしろそんな努力なんて要らない、と言われたとき、
言いようもなく打ちひしがれます。
与えられた教えが他の人たちのようにすんなり
消化できなかった私には、人のやらないような
努力をすることで、どうにか人並みにするよりほかに
方法が無かったからこその歩みだったので。
神よ、私のやってきたことは、無駄でしたか?
もし本当に無駄であるならば、私はもう、
歩み続けることはできません。
こう問うた私に対して、神の答えはただ、
「歩み続けなさい」
でした。
神の意図も、愛も、そのまなざしも、
全てが計り知れない中で、
人間がそれを推測できようはずもありません。
けれどもそれらは、必ず私の想像をはるかに超えたもの
であるという確信だけは、不思議とゆらがないのです。
その一点においてだけは、神は私をがっかりさせるような
ことは決してないだろうと。
それがあるから、先のことが分からなくても、
再び歩み始めています。
きっとこれが、古来より変わらず探求者の原動力になって
いる力なのでしょう。
真理を求め、自分に向き合う歩みはしばしば、
古傷をえぐり、傷口に塩を塗るような何とも言えない
プロセスを通過することもあり、容易ではありません。
それでも、何かに引きずられるようにして
どこかへ自分が運ばれて行くのは、まさに人生の神秘です。
私たちは、もがいてももがかなくても、
頑張っても諦めても、結局は一時もこの神秘の流れから
離れることはないようです。
今はこの神秘の流れが以前よりずっと近くに感じています。
この流れが私をどこへ運んでくれるのか。
たまにもがきつつ、遊覧していくとしましょう。