人間って、苦しい苦しいって言いながらも、
結局はそれすらも人生の余興なんだろうな、
と思うことがありました。
先日、久しぶりに会った友人と話をしていて、
ついつい自分に負荷をかけてしまう、つまり、
頑張りすぎてしまうという話になりました。
お互いに、若い頃から比べれば色々経験
してきているので、そんなに頑張らなくても
大丈夫なんだってわかってきてはいるのですが、
それでもなぜかいつも忙しいとか、自分に
プレッシャーをかけてしまう&かかってしまう
状況に身を置いていることが多かったり。
それ自体が良いとか悪いとかではないのですが、
でも結構苦しくなってドツボにハマるときも
あるわけです。
それをウン十年も、程度の差はあれ
繰り返している。
話をしながら、何でなんだろうな~って思って
眺めてみると、結局は「自分でそうしたいから
そうしている」というところに行きつくんですね。
もし、プレッシャーが全くかからない状況に
身を置いていたとしたら、どんな気持ちになるか?
といつものごとく掘り下げてみると、
「なんだか退屈になってしまう気がする」とか
「成長できない気がする」とか、人によって
色々な答えが出てくると思うんです。
他にも、「こんなに負荷がかかっても自分は
できるんだ!という達成感を味わいたい」とか、
「このくらいできるんだということを周りに
見せつけて、すごいって言って欲しい!」とか。
けれど、最初は自分で望んでいたものの、
いつの間にやらその負荷の部分ばかりが大きく
なってしまい、押しつぶされるようになっていく。
そして、「どうしていつも自分ばかりがこんなに
苦しまなくちゃいけないんだ!?」「いつも
犠牲になるのは私ばっかり!」とか色々不満が
出てきたりします。
現実に対する不平不満で心が一杯になっているときは、
もう一度「自らの現実を作っているのは自分自身である」
という原則に戻ってみましょう。
「こんな現実、望んでないわよ!」ってヤケを起こす
のではなく、落ち着いて、その状況によって自分が
得ているメリットは何だろう?って問いかけてみるのです。
どんなに嫌だ、苦しいと言っている状況でも、そこにいる
ことで得ているものがあるからこそ、そこから動かない
わけですからね。
例えば、被害者でいれば、自らの苦しみの責任を誰かや
何かのせいにして責めることで、物質的にせよ非物質的
にせよエネルギーを得られるとか、
自らの現実を切り拓いていくことへの恐れから
逃れられるとか、
自身の受け入れ難い側面を他者に投影して
「どうしようもないダメなのはアイツ」で、
「自分は正しくて良い人」でいられるとか、
がっかりしたくないからそもそもチャレンジしないとか。
こうしたパターンは、例を挙げればきりがありません。
本当にそれらが嫌でそこから脱出したいのなら、
まずはそのメリットを手放さなければなりません。
そこに執着や恐れが絡まって来るのですが、
「~すれば~でいられる」という思い込みの前提条件
自体が、本当にそうなのか?というとことから
問い直してみると、案外するっとほどけるときも
あるかもしれません。
つまり、自分に負荷をかけないと
「退屈になってしまう」
「成長できない」
「達成感を味わえない」
「みんなに認めてもらえない」
「このくらいしないと周囲に責められる」
などなどといったその思考は本当なのか?
と、改めて問い直してみるのです。
すると、自分に負荷をかけなくても
別に退屈になんてならないかもしれないし、
成長できなくなってしまうわけでもなく、
みんなは認めてくれて、実は責められもしない
かもしれないわけです。
別にそうしなくてもいい、という可能性が
見えてくれば、敢えてそれを選ぶ必然性が
打ち砕かれます。
そして、自分が求めていたのは本当は
何だったんだっけ?というところに
戻って来るわけです。
それを達成する道は別にそれ一つに限られている
わけではなく、その人やその方法、その手段
でなければいけないという固定されたものでは
まったくなかったりします。
本人がそこに限定しなければ、可能性は
いくらでもあります。
「その別の可能性を自分に許せるかどうか」だけが
問題なのです。
たとえば、「彼と一緒にならなければ私は
幸せになれない」と思い込んでいるとき、
その彼以外の可能性を認めるとか、そもそも
恋愛以外の幸せを自分に認めるなど。
もちろん、私たちはどんな選択をする権利や自由も
持っていますから、自分が生きたいように
生きればいいのです。
けれど何だか生き辛くて仕方がない、というとき、
自分が何を選択しているのかを意識の上に明確にして、
思い込みや選択を棚卸してみるのも大切かな、
と思います。