最近ふと、何でも自分一人で全部できなくてもいいんだなぁ、
と思うことがありました。
特に何か出来事があったわけではなかったのですが、
その思いは突然、何の脈絡もなくやって来ました。
今まで私は、仕事にしてもプライベートにしても、
あれもこれも全部自分一人でやらなければならないと
思っていました。
そして、それができない自分に罪悪感を抱いていて、
いつも心のどこかが重苦しく感じていました。
もちろん頭では、人に助けてもらえるところは助けてもらっても
OKだと思っていましたし、実際にそこそこ助けてもらっても
いました。
けれど、もっと根本的なところでは、自分でやらなければダメだ
と思っていたことにやっと気づくことができました。
たとえば、プライベートでは私は実家で母と暮らしているのですが、
いつもどこかで「もっと自立しなくちゃだめだなぁ」
という思いがありました。
けれど、結婚もしていないし弟たちも家を出てしまったので、
年老いた母を一人残して家を出る理由もなく、ご飯もおいしいし
実に居心地がいいので、のうのうと実家暮らしを堪能しておりました。
そうしていながら、どこかに罪悪感があって、
「もっと頑張らなくちゃ!」と自分を駆り立てていたところが
あったと思います。
けれど、そういう自身の状況も、「それでよし」と受け入れてみると、
「な~んだ、いらんことで悩んでいたもんだな」と
あっさり重荷が去っていきました。
自分が勝手に思い描いた「理想像」に当てはまらなかっただけで、
何がいけなかったのだろうと。
母も別に嫌がっているわけではないし、それなりに協力して
なんでもない会話をして日々を過ごしていて、お互いに
不都合はないのです。
私が苦手なところを母に助けてもらったり、母も私を必要な時は
「ねぇちょっと、これやってくれないかな」と頼んでくる
今のバランスが、ちょうど居心地がいいのですね。
先のことは先のこととして、今この瞬間、私は十分でした。
それなのに、随分長いこと「私は十分でない」という思いの中で
自分を苛んでいたな、と思います。
この事例に留まらず、今この瞬間、十分に満たされているのに、
「十分ではない」というストーリーを信じて生きることは
よくあると思います。
「十分ではない」と本人が認識していれば、どんなに
満たされた状況にいようとも、不足感に苛まれながら日々を
過ごすことは可能です。
つまりは、本人の認識次第で、同じ状況が天国にも地獄にも
なり得るわけですね。
実際問題として、状況を変えるよりも自分の認識を変えた方が
ずっと時間も労力も少なくて済みます。
認識を変えるのは、一瞬でできますからね。
けれど、実際に「十分ではない」と思っているし
そう感じているのに、「十分である」という認識に変えるのは、
難しいと思うかもしれません。
無理やり思い込まなくてはいけないんか?
でもそれじゃぁ、自分に嘘をついていることにならない?
確かにそうですね。
でも、無理やり思い込むわけではありません。
最近読んだ、心屋仁之助さんの本の中でこんな風に
書かれていて、ちょっとカルチャーショックを受けました。
(表現は正確ではないかもしれません)
「そう感じられなくても、そう思えなくてもいい。
とりあえず、そういう事にしておく」
え~!それでいいの!?
ホントに?
まぁ、じゃぁやってみますか。
「私は十分だ」ということにしておきます。
たとえそう感じられなくても。
これは色々なところで使えそうです。
たとえば、私は自分の能力について十分ではないと信じていますが、
様々な方に「凄いですね!」と評価していただいたことも、
大変光栄なことですがあります。
そんなとき、決まって私は「いえ、全然すごくないんです」
と心からその賛辞を否定していました。
けれど、これからは「私は凄い!ということにしておく」
ことができるわけですね。
たとえそう感じられず、そう思えなくても関係ないのですから。
私は素晴らしい!ということにしておく。
私は豊かである!ということにしておく。
私はとても愛されている!ということにしておく。
私は有能である!ということにしておく。
私はかなりイケてる!ということにしておく。
私はとても運がいい!ということにしておく。
「ということにしておく」というのは、実に素敵な魔法の言葉ですね。
頑固に思い込んでいた認識を、簡単に転換してしまいます。
不思議なことに、これをやっていると、何だか本当に
そう感じられてくるのが面白いところ。
人生って、このくらい、ゆる~く生きてても大丈夫なようです。
今までは、「もっと頑張らないと!」と信じてましたが、
そんなに頑張らなくても、今生きているので
これを良しとすることにします。