以前から告白しているように、私は楽しいとか喜びの感覚がほとんとなかったのですが、ここ最近、その感覚が感じられるようになってきていて、身心の気力の充実度がぐっと増しているようです。
6月ごろから少しずつ色々なシフトが起こってきていることもあるのですが、実は特別講座の第2弾でご紹介するアイテムを、あるテーマでピンポイントで使ったせいもあるのかもしれません。
少しずつ起こったシフトを、力強く勢いづけてくれた感があります。喜びって、人生において大切な感覚ですね。改めて実感しました。
引き寄せる情報も随分変わって来て、消化していかなければいけない学びがどっと来ているのですが、今はほとんどが「積ん読」状態で、あまりその量に圧倒されないように、良い加減の「適当さ」を意識するようにしています。
頑張らない。適当に。楽に。
義務と思えるものよりも、楽しいこと優先。
これらをモットーに、のほほんと人生を歩んでいこうと決めております。
修行というか、苦行を私の魂は随分とやって来ているような気がするので、そろそろそれらもいいかなと自分に許せるように、やっと最近なってきました。
今までは、どうやっても「いや、まだまだダメでしょ」ってなってたんですよね。
そういえば、瀬戸内寂聴さんも、以前は世のあらゆる苦しみを味わってやろうというように思っていたけれど、ある時からもう苦しいのはご免だ!となったとか。(超うろ覚えの記憶なので、表現は大分違います)
機が熟して、苦しみを求める思いが落ちていったのでしょうね。
果物が熟して木から落ちるように、ものごとにはどんなに頑張ってもそれよりも早くも遅くもならないタイミングというものがあるのだと思います。
人は、苦しみを恐れ、忌み嫌いながらもある部分では、ものすごく苦しみを必要とする存在なのだと思うときがあります。
どうしても許せない自分を罰していたり、苦しむことで本当の望みを隠し忘れさせたり、できないことの言い訳にしたり。
人間って、ほんとに複雑です。でも、苦しい苦しいって言いながら、実はそんな体験を楽しんでいる部分もあるんだろうと思うのです。
本当に死ぬほど苦しんでいる最中には、冗談じゃない!ってなるのでしょうけれど。
私が師と勝手に仰ぐレナードは、よく「深刻になりすぎないように」と言います。少し前の私は、「そんなこと言ったって無理~!」って思ってました。
けれどつい最近、自分は既に「なりたかった存在」だったと気づいた感覚のところからこの言葉を改めて見てみると、結局はすべて満たされているこの領域のベースに、足りないとか十分でない、ダメだ、醜い、憎い、恨めしいなどなどのあらゆるネガティブなストーリーも展開されているのだと気づいたのです。
ほんのちょっとだけ、意識のフォーカスポイントを変えるだけで、同じ状況の中にまったく違った世界が見えるのに、私たちはそれに気づかない。というか、敢えてそれをしなかったりしているわけです。
怒りや憎しみ、悲しみをどうしても手放したくない理由があるからなのですね。
そのように単刀直入に指摘してみても、多分本人には自覚は無く、ほとんどの場合即座に「そんなことはない!」と言うでしょう。
その理由には、気づいてはいけないから。たとえば、自分が被害者で絶対の正義でなければいけないのに、気づいてしまったら自作自演のストーリーだったとバレてしまいます。そうしたら、今まで主張してきた自身の正当性は崩れ、誰かを責める理由がなくなってしまいます。
誰も責められなくなった時、責めることで紛らわせていた受け止め難い責任が自分に差し戻されて来てしまいます。そうなっては都合が悪い。
「見たくない自分」の中には、そんな戦略的な構造もあったりするのです。
深い苦しみの中でしか得られないものも多くあるのは確かです。けれど、十分に学んだのなら、それを手放してもいいかどうかを問うてみましょう。
自分にそれを許せないのなら、なぜ「苦しみに逃げている」のか、さらに問うてみましょう。
もし自分が苦しまずにいたのなら、どんな気持ちが浮上して来るでしょう?
落ち着かない気持ちがあるのなら、それこそが「逃げているもの」です。しかと受け止め、統合しましょう。
一度のワークで完全に自分を許せない時は、何度か繰り返し、「逃げているもの」に向き合う必要があります。そのうちに、ふっと「もういいかな」と思える時が必ずやってきます。
苦しむことが悪いとか、遅れているとか、あるいは下等なことだと言っているわけではありません。それぞれの段階で、しっかり味わい、経験することこそが大切なのですから。
全ての経験は等しく尊いものです。どれがいいとか悪いとかはないのです。焦らなくていいので、今体験していることを、ジャッジメントせずに在るがままに受け取りましょう。
そうしていく内に、カルマは晴れ、何かが熟していくのだと思います。