先日、ある方たちと食事をする機会があったのですが、その中のお一人が何気なく言ってくださった言葉が、家に帰ってからも私の中でとても良い波動を響かせていて、他の人に心から幸運を祈られるというのは、こんなにも気持ちの良い体験だったのか、と改めて感じました。
その方はオヤジギャグ(本人曰く「オジサマギャグ」)を連発する、かなり変わったキャラクターの方なのですが、本当に神につながっているとてもピュアな方です。
ピュアだけれどもさむすぎるギャグの連発に、私はひきつった笑顔で応対しながらも、とても楽しく有意義な時間を過ごさせていただきました。
色々とすごい方ではあるのですが、他の方の幸せを純粋に願うことができるというのは、何より素敵なことだな~と思います。
自分の中に少しでも羨望や妬みなどの純粋でない気持ちがあれば、その祈りは私が感じたような清々しい心地よさは無かったでしょう。
何と言うか、その言葉を聞いた時はさほど気にしなかったのですが、後から、その言葉のバイブレーションが自分の中でジワ~っと響き続けているのが分かるんですね。こんな言葉をいただいたのは初めてかもしれません。
多分この方は、普段から純粋な祈りを捧げることができる方なんだろうと感じました。それが、この方の在り方なのでしょう。なかなかできることではありません。
翻って私はどれだけ純粋に祈ることができているだろうかというと、もうまるで比べ物になりません。というか、比べたら失礼なくらいです。
さらに、これが聖者の祈りだったらどれほどの力があるだろうかと思うと、本物の聖者と言われる方の為したことを見れば、そのすごさが分かります。
サイババ然り、アンマ然り、ラーマクリシュナやヨガナンダ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハルシ、ヴィヴェーカーナンダ、シュリ・ユクテスワ・・・。
彼らほどの存在になればもう人間の域を超えていますから、とても普通には見れませんが、それでも彼らは人間の無限大の可能性を見せてくれているのだろうと思います。
人からかけていただいた言葉がこんなにも自分の中で残るのだな~と、今回は素敵な体験でした。けれど、よくよく考えてみれば反対のネガティブな方に働く言葉もあるわけです。
そんな言葉に自分が縛られていないか、あるいは反対に自分が誰かにそんな言葉をかけていないか、これは気を付けなければいけないと思います。
本当に言葉というのは諸刃の剣で、良い方にも悪い方にも、ストン!と入ってしまうことがあるんですね。
悪気なく言った言葉だったとしても、呪いのようにその人を縛ってしまうこともあって、たとえば、親御さんがお子さんに「お前は昔から体が弱かったから、気を付けなければダメだよ」と心配して言ったりすることってあると思うんです。
けれど、これが「自分は身体が弱い」という暗示となってしまったりもするわけです。
潜在意識レベルに入ってしまうと、顕在意識で自分はそうではないと思っていても、人よりも体が弱いということを思い知らされる体験などをして、「やっぱり自分は身体が弱かったんだ」と納得してしまい、さらに暗示を強めるというスパイラルに入っていきます。
じゃぁ心配するなって言うの?という親御さんの声も聞こえてきそうですが、もし自分が言った通りに相手がなってしまったら、と思って見て、そうなって欲しくないことを言葉にしてかけるのは、気を付けた方が良いのかな、と思います。
イライラに任せて、「お前は本当にダメな子だね!」とか、「いつも言われたとおりにできないんだから!」とか、つい怒って言ってしまいそうですが、もし、自分がそんな風に言い続けていたから、その通りになっているのだとしたら、どうでしょう?
サロンに見える方の中でも、こうした親をはじめとする他者にかけられた言葉で苦しんでいる方をたくさん見てきているので、暗示の威力は本当にばかにならないと思うわけです。
もちろん、そうしたものも解いていく方法はあります。
感情解放のワークでもできますし、他の方法もあるでしょう。ただ、そうした暗示が入ってしまうのにも、受ける側にそうした素地があるから入るのだということも、覚えておいてください。
感情解放ワークでは、その素地にある要因自体を変容させていくことができます。
そうした暗示をかけてくる相手がなぜ自分の現実に現れているのか。「そう言わせているのは自分」でもあるのです。
善き言葉を引き寄せる自分であるよう、まずは自身の在り方を整えていきたいものです。