サロンに見える方には、ご自身が本当に感じているものを生きていく、という視点から見たときに、様々な段階にある方がいらっしゃるように拝見します。
まずは抑圧に抑圧を重ねてきて、ご自身の感情のカケラに対して、それに触れていくことへの重要性の認識がまだほとんどない方。
こういう方は、泣くことも怒ることも苦しむことさえも自分に禁じているので、心が窒息状態になっていて、生きることがとても辛く感じています。
小さい頃から、本当に頼れる人がいなかったりして、辛さも淋しさも怒りも悲しみも、ぐっとこらえてこられた方などが多いようです。
現在の人間関係もかなり厳しい状態にあることが多く、特徴的なのが、自分が辛いときに助けてもらえない、話を聞いてもらえない、無視される、感情を表現すると否定されるなどの環境にしばしば置かれていることです。
これは、鏡の法則から見れば当然のことで、自分が自身の感情に対してそのように扱っているということを、周囲の人たちが鏡となって示してくれているのですね。
このような状況に在るときは、まず自分の自身に対する接し方を変えていくことで状況が自分に取って心安らかなものになっていくのですが、こういうお話をしてすぐにピンときて行動される方はとても少ないように感じます。
そんなことをしたって、この状況は何も変わらないと思ってしまうのでしょう。そしてまた、これまでもこうして耐えて生きてきたのだから、自分の辛い感情に触れて生きるのはとても恐いし、難しいことだと感じていらっしゃるかもしれません。
自身の在り方を方向転換するのは、確かに、なかなかにエネルギーの要ることですね。
人は、慣れ親しんだものの方が辛くても安心するという傾向がありますから、在り方を変えていこうと思えるだけでも、実はとても凄いことなんだと思います。
こういう話を聞いても、スルーしてしまう方が多い中で、このことが心に留まり、「やってみよう!」と思えたことは、それだけでもものすごい恩寵が働いていると言えるでしょう。
まして、蓋をして来たものを開いて、本当に受け止めて統合していこうと足を踏み出す方は、きっとそう思えるまでにとてもたくさんの経験をされてきたのだろうと思います。
今、サロンに通って下さって、恐る恐る、けれども勇気をもってご自身に向き合うプロセスを歩んでくださっている方がいらっしゃいます。
自身の内なる声は、長いことそんな風に向き合ってくれることを願ってきたので、やっとその時が来たことをとても喜んでいるか、あるいは「本当に向き合ってくれるんだろうか?また裏切られたくない」と、半信半疑で注目しています。
やっと踏み出せたその一歩がさらに続いていくように、私もできる限りのサポートをさせていただきますが、最終的にそれをするのかどうか、どこまでやるのかはご本人次第です。
内なる声を聞けば聞くほど、自分という存在が想像をはるかに超えた存在なのだと、驚嘆の思いで知ることになるでしょう。人生は、退屈でどうしようもなく希望のないものではなく、心震わせる恩寵と愛に満ちたものであると本当に感じられるようになっていきます。
先日ある方に、こんな「盲亀浮木」のお話を伺いました。
ある時、釈尊が「たとえば大海の底に1匹の盲亀がいて100年に1度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に1本の浮木が流れていて、その木の真ん中に1つの穴がある。100年に1度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが1度でもあるだろうか」と尋ねられた。
阿難という弟子は「そんなことはほとんど考えられません」と答えると、釈尊は「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、今の例えよりも更にありえぬ難いことなのだ」とおっしゃっていられます。
出典:http://koushi.cocolog-nifty.com/koushi/2009/11/post-f029.html
それほどの貴重な人生を今、得ているのだとしたら、何としてでも実のあるものにして行きたいですね。宝くじに当たるよりもはるかにあり得ない機会を手にしている私たちは、既にものすごい存在なのだと思います。
明石家さんまさんが、「生きてるだけで丸儲け」って言ってましたが、本当にその通りです。誰ができないこれもダメ、なんて思っていることは、実は大したことではなかったのですね。
そんな風に今この人生を捉えてみたら、何か違ったものが見えてくるかもしれません。