つい最近、ある方から言われた言葉にとても反応している自分がいて、そのことがぐるぐる頭を巡っているのでしっかりとこれを消化し、自身の糧としていくためにワークの前整理のプロセスをシェアしてみたいと思います。
あくまでこれは私自身のワークであり、その方に対していかなる批難の意図もないことを念押ししておきます。
その方は私がとても尊敬する方で、もちろんその言葉も愛からのものであるというところはベースとして在ります。その上で、私の心の中には反論や反発の言葉が際限なく噴き上がっていました。
一体どんな言葉に反応したかというと、「私は絶望の淵にある方に寄り添って、その方が回復していくサポートをして行きたい」という趣旨の発言をしたとき、その方は「『絶望の淵』というのは概念ですか?」と質問されました。
その質問の意図するところは私も何となく理解したと思っているのですが、多分「それはあなたが作り出したマインドのストーリーの世界ではないですか?そんなものは実際は存在しないのではないですか?」ということだっただろうと捉えています。
一瞬わたしは言葉に詰まったのですが、その時は上手く説明できなくて、けれどもそれを概念だとは認めたくありませんでした。今振り返ると、「絶望の淵にある方に寄り添う」というのは、私にとってどうしても概念とは言えなかったからです。
「絶望の淵」だけを取り出されてしまうと言葉が無いのですが、「絶望の淵にある方」という言葉で私が表そうとしたものは、セッションの中でよく私がビジョンとして見るものを指しています。
抑圧された感情のエネルギーが、深い絶望を抱えて暗く冷たい空間で死体のように倒れていたりうずくまっていたりする姿が実際に見えるのですが、ワークをして行くとこれがだんだんと明るくなり生気を取り戻し、最終的に統合された時には、とても楽し気な様子で辺りを駆け回っていたりするようになります。
つまり、「絶望の淵にある方」というのはこのように回復する前の、抑圧された状態の感情のカケラのことです。これを表現するのに、「絶望を抱えた方」というよりも、私にはそう表現した方がよりしっくりくるので概念的な表現になってしまいましたが、私にはどうしてもそれを概念だとは言えませんでした。
もちろん、その感情のエネルギーが絶望であるというのは私にそう見えているだけではなく、セッションを受けている方から実際に出てきた言葉です。
たとえば医者が患者さんを診て、目の焦点が合っておらず「目が泳いでいる」ような状態を見て取ったとして「目が泳ぐとはどこを泳いでいるのか?泳ぐような場所があるのか?」とは誰も聞かないだろうことと同じようなものだと私には思えたのです。
また、MRIやレントゲンの画像を見て、これはマインドのストーリーだ、とは言わないようなもの。
逆に、それをマインドのストーリーだと言ってしまったとしても、セッションの時私は考えて進めているわけではなく、その方、その感情のカケラとともに在ると、自然と為すべきことが分かるので、ストーリーで誘導しているわけではないという思いがふつふつと湧き上がってきました。
(言われた時は混乱して訳が分からなくなっていましたが)
そして何よりとてもショックを受けたのは、私がセッションを受ける人を「可哀想な人」と見ているように聞こえる、と言われたことでした。
これには言い表せないほどの衝撃と悲しみを覚えましたが、私はそのようにクライアントさんを見たことは決してありませんでした。けれど、そのようにその方には見えるのかという事実が、本当にショックでした。
たとえば、目の前で溺れている人や、今まさに土砂崩れに巻き込まれて身体の半分が埋まった状態の人を見て、「可哀想な人」と思うでしょうか。その状況にいて自分にできることがあるのなら、ほとんどの人は最善を尽くして助けようとするのではないでしょうか。
私のイメージだと、誰かを「可哀想」と見ることは、自分はそうではないけれど、あの人は可哀想。と分離していて上から目線のようなイメージがあります。けれど、私はセッションの間、相手の方の苦しみに共感し、共にその場にあります。これは「可哀想」という同情とは違います。
さらに、「そういう風にしていると、『可哀想な人』を引き寄せてしまいませんか?」と言われたのですが、「可哀想な人」はさておき、私は私のサポートを必要とする方に意識を向けてそういう方とともに在るというところに役割を見出しているので、その在り方が何か間違っているのだろうか?と、ここでもとても混乱しました。
医者が患者を診たり、消防士が燃え盛る炎の中から人命救助をするのは尊い行為だと無条件で一般に受け入れられるけれど、ヒーラーだとなぜ問題になってしまうのだろう?医者も患者さんがいるから医者であるし、消防士も火事があるからそれが仕事になるのに。。。と、ただひたすら悲しみが湧いてきました。
もちろん、「助けたい」という衝動が自分の未完了の感情の投影として起こっているパターンもあるので、注意深くなければいけませんが、完全にとはとても言えないものの、それには私なりにかなり気を付けてワークもして来ました。
今回、私がその方からこうした言葉を引き出したという事実、そしてそのことに深く感情が揺さぶられていることから、多分これは私にとってとても重要なメッセージが差し出されているのだと思います。
本当に、私のやってきたことの根幹を否定されたくらいの衝撃だったので、まだ全然整理できてはいないのですが、何とか少しずつ感情を受け止め、メッセージに応答していきたいと思います。