悟りや目覚めを意識する人は、「今この瞬間」がいかに大切かということを嫌というほど見聞きしていると思います。それにまつわる本やセミナーもたくさんありますし、今この瞬間のプレゼンスを日常の中で意識されている方も多いでしょう。
けれど、その実践において、難しさを感じている方は少なくないと思います。
私はレナードの教えに出会って、プレゼンスに在るには抑圧された感情のエネルギーに対処しなければならないことを知り、そこから自身の感情に向き合うことをしてきました。
そこから、今お伝えしている感情解放ワークが生まれたわけですが、自分に向き合ってきた時間の中で、もしこれをやらなかったらとても身につくことは無かっただろう、洞察力や人間の感情の仕組みへの理解などが育って行きました。
それは私にとって、本当にかけがえのないギフトになっています。
今、そうしたギフトを持ったうえで、さらにプレゼンスに根付いていくことが試されているのをひしひしと感じています。
ある程度抑圧された感情のエネルギーのチャージが解放された段階で、随分と思考が穏やかになり、瞑想も深くなったりはしたのですが、ここ最近の大きな揺さぶりの中で容易くプレゼンスから吹き飛ばされている自分がいました。
まだまだプレゼンスの根っこが浅いことを痛感した日々でした。
レナードに出会って7年余り、私の中で芽吹いたプレゼンスの種は、今度は深く深く根を張って行かなければいけないところにきているようです。
今まであまり意識したことは無かったのですが、自分の中にとても大きな恐れのエネルギーがあったことに去年からの流れの中でやっと気づき、少しずつ対処してきました。
バランスを取るのはとても難しかったですが、最近は心配事に意識を取られそうになると、「今ここしかない」「今この瞬間だけがある」とマントラのように唱えては、今ここに在るものに意識をつなぐということをしています。
そうすると、確かに今この瞬間には、何の問題もないのですね。
マインドの悪夢に囚われていると、どんなに素敵なものが目の前にあっても美味しいものを食べていても、ちっともその有り難さや素晴らしさに気づけないのです。そうして「自分には無い」と思い込んで、「隣の青い芝生」に嫉妬したり、拗ねたりしています。
これでは生きていてももったいないというか、残念ですよね。
今のこの現実が自分が作り出したものなのだとしたら、この現実は私に何を差し出しているだろうか。スピリットはこの状況から、私にどんなことに気づかせたがっているだろうか、と意識を向けます。
エゴは、「こんな風にならなくちゃ幸せになれないんだから何としてでもそれを実現しなくちゃ!」と私を駆り立てます。けれどそれは嘘です。
幸せは、本来条件付きのものではありません。幸せになるために必要なものなど、本当は無いのですね。今すぐ、ここで幸せでいればいいのです。
インドの覚者、ラマナ・マハルシも、「幸せで在りなさい」と言いましたが、「幸せになりなさい」とは言っていません。
花は幸せになろうとしていないし、花になろうとはしていません。ただ、花は在るだけです。それでも花はこれほどまでに美しく、完全です。
けれど私たちはしばしば何者かになろうとし、自らの不完全さに打ちひしがれています。
私たちは、花や猫ほどにもプレゼンスには居ないのです。
近頃大ブレーク中のブルゾンちえみさんのネタで、
「花は、自分からミツバチを探しに行きますか?」
「探さない。待つの!」
というセリフがあります。
けれど、花は待っているわけではなく、ただプレゼンスにあるだけなんですね。だからミツバチがやって来る。けれど、もし花が心配事ばかりしていてマインドの中を彷徨っていたら、ひょっとしたらミツバチはやって来ないかもしれない。
心配事でマインドを彷徨って今ここに居ない花と、プレゼンスに在る花だったら、きっとミツバチはプレゼンスに在る花にやって来るだろう。そんなことを思いました。
私たちも、心配事ばかりしている花になっていないでしょうか。
私たちがプレゼンスに在るとき、自らジタバタ動くよりも大きな仕事をしているのだと覚者は言います。
プレゼンスの重要さをイマイチ飲み込めていないと、どうしてもジタバタして動いたという感覚に自己満足してしまいがちですが、それも単に焦りの感情を紛らわせるためのものでしかないのです。
頭で分かっていても、苦しいときにプレゼンスに居るのは大変な修行だと思います。瞬間瞬間を、綱渡りするようなギリギリの状態で、プレゼンスを選択し続けるということですから。
これまでは、すぐに思考に飲み込まれていたけれど、今なら「プレゼンスを選択する意識」に、少しは踏みとどまれるような気がします。
どれだけ理論を分かっていても、実践が伴わなければ机上の空論。実践の上にも実践ですね。
精進いたします。