それなりの期間、自分自身に向き合う内観と解放ワークを続けてきていても、日々色々なものが出てくるものだなぁとつくづく思うのですが、私自身、師であるレナードに出会って自分に向き合うことを本格的に始めて6年ほどになります。
何十年も何かの道に精進されている方から見ればたった6年ですが、至らぬところばかりの自分に、人間というのは本当に奥が深いものだと、可能性の大きさを感じるのと同時に、しばしば圧倒される思いに駆られるときがあります。
地球のバイブレーションは日増しに高まり、私たちは毎瞬、自身の在り方を選択することで自分の生きる世界を決めているのだと多くの方がメッセージを発しています。
自分はどんな世界に生きたいのか。それを思うと、理想とは真逆の自身の側面が噴き出してきて、焦ったり不安になったり、理性では抑えようもない感情のエネルギーが暴れては翻弄されます。
なかなかこの暴れ馬は御し難く、未だ有能な乗り手とはなれていません。
自分に向き合い続けてきた6年の日々を振り返ってみると、最初の頃はとにかく抑圧された真っ黒なエネルギーに日々、血を吐くような思いで受け止め、解放し、その中で人生を導く恩寵に触れてきました。
ある程度それが落ち着いてくると、苦しみの感覚があるとき大きく変化して、どんな苦しい感情でも落ち着いて見ることができるようになっていました。
その状態が結構安定して続いていたのですが、去年からその安定を大きく揺るがすような波がやって来ていて、あれほど「もうどんな感情がやって来ても大丈夫!」と思っていたその自信があっさり崩されてしまいました。
本当にこのところ、ジェットコースターに乗っているようです。「大丈夫とか言っているけれど、ほら、まだこんなにあるじゃないか!」と皮肉たっぷりに試験官にいたぶられているみたいです。(^^;
揺さぶられていると言っても、6年前の様相とは全く違っていて、感じる感覚と洞察力、受け止める力が当時よりも育っている分、噴き出すものも容赦ないというか、ドッと一気に噴き出す感があります。
まぁ、こちらも抑圧しておくつもりはないので、出てくるなら出て来てくれた方が良いのですが、解放のプロセスには必ず、ただ解放だけではなく、「自身の在り方への問いかけ」が含まれています。その問いかけに向き合い、応えていくのにものすごくエネルギーが要ります。
またその問いかけの質が、今の自分のままでは容易に応えられないような、量子力学的な飛躍を促すようなものになっているような気がして、「マジっすか…!」と、未だまどろみの中に在る私は少々、否、大分たじろいでいたりします。
しかも、まどろみのままにその問いかけを受け取ってしまうと、問いかけの主旨を誤って受け取ってトンチンカンな応答をしてしまい、「そうじゃないだろ!見るところが違う!」と激しいツッコミとともに課題が差し戻されてくると言う感じです。
もう傾向は掴んだからバッチリ!と思っていた試験問題が、いつの間にやらとんでもなくレベルアップしていて、油断しまくっていた脳みそは面食らってアタフタしているようなものです。
この揺さぶりのおかげで、私の中に行儀よく収まっていた未完了のエネルギーの澱が舞い上げられ、「それも全部きれいにするのよ」とチェックを入れられております。
この徹底ぶり。ホント、容赦がありません。もうこのくらいで勘弁してやろう、ということは無いんですね。
この問いかけをどう受け取りどう応えるのか。師や神からの応答があったにもかかわらず、なまくらな頭にはなまくらな程度の応えしか出てこないのですが、近々何か、カンフル剤になりそうなものが来そうな気もしています。
うまく働くと良いのですけれど。。。
目覚めたいと望みつつ、まだ私は惰眠を貪りたいものなのだな、とつくづく思う今日この頃です。
惰眠を貪り悪夢にもがきつつ、嵐に揉まれてボコボコになっている。早く目を覚まして嵐から出れば良いものを、そのいかにも簡単な目覚め方が良くわからない、というループ。
まぁ、時期が来ればこれも落ちるのでしょう。目が覚めればもう戻ってくることは無いでしょうから、貴重な経験と、今の内にじっくり味わっておくことにします。
こういうところはスマートにすっと通り過ぎていくのが個人的には理想なのですが、実際はものすごく泥臭くて、人間臭さの極みみたいなところまで落とされるのですね。そういうのも、実は嫌いじゃなかったりしますけど。(笑)
その泥臭さの極みで、私は何を見て、どう在るのだろう。差し出された在り方への問いかけを、じっと見つめています。