人間、自分一人の力ではいかんともしがたい状況になった時の方が、人生の真理や神を必死で求めたり、謙虚に自分の至らなさに目を向けるものだとつくづく思うのですが、神はそうした私たちの呼びかけを、本当に聞かれているのだな、と思う出来事がありました。
去年から今年にかけて、とても心揺さぶられることが多かった中で、様々な試行錯誤をしてみたものの、やったことが全くの裏目に出てしまうことが何度も続きました。
本当に一生懸命やったことが全く実にならなかったり、気を取り直してチャレンジしたことも出鼻をくじかれ頓挫してしまうなど、もがいた中でやったことのすべてが膠着状態になっていました。
そして肝心の探求の方も深まる気配もなく、ますます迷路に迷い込んだように感じて、まるで世界が八方ふさがりのように思えました。
師の教えも、素晴らしい師がこんなにも力を尽くして与えようとしているのに、私は全く受け取れない、精いっぱい努力をしているのにさっぱり分からない、触れられないと、ひどく悲しい思いで一杯でした。
他の人はもっとずっと簡単に受け取って、どんどん先に進んでいくように見えるので、これだけ努力してもダメなのなら、私にはきっと無理なのだろうとさえ、思うようになっていました。
探求とは別の方面でも同じ思いが噴き出していたので、これは私のテーマなのだろうと思いつつも、噴き上がる絶望と悲しみ、身心の痛みに耐えあぐねていたのです。
来年のリトリートも、もう行く意味はないかもしれないとか、これ以上、師の教えを実践していくことは無理かもしれないから、離れてみようかとも考えました。
霊性の師から離れるというのは、師をお持ちの方にはお分かりかと思いますが、習い事を辞めるとか会社を辞めるのとは全く違った意味を持ちます。ある教室や会社がダメだったら次を探せばいい、というものではないからです。
言葉ではなかなか言い表し難いものがありますが、魂が引き裂かれるとか、ある部分で霊性の死すら暗示するような感覚があって、とにかく辛いものでした。
そんな状況のある日、私は自身の在るがままの状態をイメージワークで師に訴え、助けを求めました。夢の中でもいいから導きが欲しいと。
けれどその一方で、私は師がそれに応えるとはあまり期待していませんでした。というのも、実際これまでに私は何度も師に拒絶や厳しい態度を取られたり、他の人には容易に与えられるガイダンスが、私には与えられないということが繰り返しあったからです。
それでも求めずにはいられない程、私は限界に来ていました。
案の定、その日の夜の夢にガイダンスは現れませんでした。やっぱりそうだよね、と思うのと同時に、また思った通りを実現してしまったかと、さも当然のような妙な納得感で朝をスタートしたのですが、思いもかけず、祈りは届いていたことをこの後、知ることとなります。
お昼過ぎに覚えのない郵便物が届き、送り主を見ると、師にかかわりのある知人からでした。はて?と思って中身を確認すると、可愛い素焼きのクロスのオブジェが入っていました。
とても心のこもった品物だと一目でわかりました。同封のメッセージからも、温かなその方のお心遣いが感じられ、それだけでもうれしかったのですが、何より、今の私にとってそれは師であり神からの応答そのものでした。
本当にただただありがたく、覚えず溢れてくる涙を止めることができませんでした。
そのクロスの中心部分にハートのモチーフが描かれていたのですが、私にはそれが師の愛そのもののように感じられ、「くじけず歩み続けなさい」という励ましのように思えました。
何とも絶妙なタイミングでのこのしるしに、神は全てをお見通しなのだと思わずにはいられませんでした。
師に対して複雑な感情を抱いてきて、今年のリトリートで私の中に埋もれていた憎しみを浮上させてくれたことには感謝の気持ちもありますが、それでも未だ師は私にとって非常に厳しい導き手であることに変わりはありません。
師に対するそうした感情の苦しみの中、ふとしたきっかけからたどり着いたブログで、インド占星術における「8室の効能」という記事を見つけました。そこに描かれていたことがまさに今の私にピッタリとあてはまっていて、星がそうなっているなら仕方ない、と思った記憶があります。
8室というのは、インド占星術の8番目のハウスを指し、筆者はこれを「グル(師匠)を損失するハウス」すなわち、「師に対する甘えが許されず、満たされない」という象意を説明しています。こうした状況の中で磨かれるものこそ、このハウスの効果なのだということでした。
「師を損失する」というこのテーマ、実は何度も過去世でクリアに失敗しているようで、これまでのワークでも師を去ったり自殺したりというストーリーが出てきたことがあります。
こうして改めてみると、石臼で身体を挽かれるがごとくのこの苦しみも、必ず越えていかねばならぬものなのでしょう。
心身を石臼で挽いた後には、果たしてどんな私が現れるのでしょうか。まったく想像もできませんが、神の愛は本当に生半可なものではない、とつくづく思う今日この頃でした。