日々、普通に過ごしていても色々あるものだと思いますが、たとえばトラブルと思えるようなことが起こった時、みなさんはその出来事にどんな風に応答していますか?
反射的に反応して頭が真っ白になって固まってしまったり、自分のせいじゃないと思ってみたり、誰かのせいにして八つ当たりして見たり、とにかくぐっと気持ちを抑えてアタフタしながらもやることをやる、開き直るなど、色々なパターンがあるでしょう。
ものごとが嫌な展開をして行ったときこそ「自分の成長のための腕試し」と思って、向き合って見ると、哀れな被害者がトラブルの渦に巻き込まれてなすすべもなく翻弄されて行くストーリーから、離れられるかもしれません。
そして、この出来事を自分の現実において、どんな出来事にしたいかを決めます。私だったら、「必ず愛と光、感謝の出来事に転換します」という具合に、自分自身に宣言するでしょう。
自分でそう決めることによって、ものごとはその方向に向かって流れていくようになります。自分の意図が、その出来事の意味合いを決めるわけですね。
そもそも出来事自体に善悪や意味があるわけではなく、それはあくまでニュートラルです。受け取る私たち自身が、自分の認識や感覚に従って「これは良い、こっちは悪い」という具合にラベル付けをしているので、出来事の意味はいかようにでも「自分で」変えられるわけです。
この時に注意したいのは、いかにそれを変えることができると言っても、出来事を通して生じる様々な感情や感覚は、抑圧し捻じ曲げるのではなく、まず在るがままに受け止めることが大切です。
受け止めた上で、自分が最初に決めた意図に沿った行動を瞬間瞬間選択していきます。
愛と感謝を選択したのなら、たとえ理不尽な出来事があったとしても、その出来事によって自身の内に浮上した諸々の感情や感覚をしっかり受け止めたうえで、愛と感謝の行動を選択するということです。つまり、反射的に痛みの応酬をするのではなく、愛から行動するということです。
たとえば、先日のサポートフォーラムでのトラブルの時、自分に非はまったく無いにもかかわらず、ひどく誤解されて傷つくようなことも言われました。けれど、私には相手に痛みの応酬をしようという選択は一切ありませんでした。
ただただお世話になった方たちに感謝を届ける!という一点で、慌てふためきながらも必死で行動していました。そうしたらちゃんとその意図の通りに収束しました。
今、私には他にもいくつか気がかりなこと、それを思うと心がざわつくことがありますが、それも逃げずに起こってくることを受け止めようと思っていますし、必ずこの出来事を愛と感謝に転換する!と決めています。
この「決める」という部分は、外的な状況は一切関係なく、自分自身で完結させられるものです。だから、そういう意味で、何事も自分次第ということですね。
けれど、中にはどうしても決められない、ブレてしまうという場合もあるでしょう。なぜブレてしまうのか、決めることができずにいるのかというと、これにも理由があります。
先ほど、自身の内に浮上する感情や感覚を受け止めた上で、選択するとお伝えしましたが、この前半部分ができていないのです。
つまり、自分が感じているはずの気持ちや感覚が辛かったりして受け止めるのが嫌なので、そこから逃げている。そして逃げているから自分の軸が定まらず、結果、決めることができないという状態になっています。
私たちはしばしば、自分の感情の責任を取って受け止めるのはとても恐ろしいことだと思っています。けれど、そこから逃げてブレブレの自分を生きる方が、余程辛く苦しいことだとは気づいていません。
その感情にはメッセージがあるのですが、それを私たち自身が受け取らない限り完了とはならないので、何度でも同じところに戻って来てしまうのです。
そのメッセージは私たちが次に進むための大切なカギです。次に進みたいのなら、そのカギを拾わなければなりません。
それができたとき、私たちはぐっと成長し、これまですぐに揺さぶられていた状況の中でもしっかりと地に足を付けて立っていられるだけの力が宿ります。その力を宿した自分が、次の自分の行き先を定めるわけです。
何かを決めようとするとき、ブレブレになるとしたら、自分の中に責任を取っていない何かがあるのかもしれません。今、自分は何から逃げているだろうか?と問うてみて、その逃げているものに時間を取って向き合って見るとことです。その時間は、先を急ぎたいあなたにとっても、決して無駄にはならないでしょう。
あれこれ思考を巡らせるより、感じていない何かがあるかどうか、そこにピタリとフォーカスを合わせて受けとめてみてください。ここが空回りしていた歯車を再び正常に戻す働きかけのポイントです。