昨日は東京渋谷で行われているインドの聖者・アンマのダルシャンに行ってきました。一昨年、去年い続いて3回目です。私はアンマの信奉者ではありませんが、初めてアンマの抱擁を受けてから、この方は本当にすごい方だと感じて、以来友人知人を誘って毎回参加するようになっています。
25日まで開催されているので、興味のある方はぜひ行ってごらんになるといいと思います。
参加するたびに様々な気付きをいただくのですが、今回は自分自身の在り方を根本的に問われているタイミングでもあり、本当にこの人生で、魂の願いを体現するような愛からの選択をする勇気をいただけるようにとの願いの下、抱擁を受けました。
去年はただ前年の続きの感じで受けただけだったので、あまり深い感動は無かったのですが、今回は抱擁の時にアンマが耳元でささやいてくださる言葉が、意味は分からないものの、深いところに入っていくような感覚がありました。
そして抱擁が終わった後、アンマのお顔を見たら、とてもニコニコされていたので、何か選択の後押しをしてくださっているような気がしました。アンマはいつもにこやかにされているイメージはありますが、去年はそんなことは無かったので、余計にそう感じます。
レナードもそうですが、人生では霊性における特別な出会いというものがあります。グルに出会えることの幸運、聖者にまみえることの幸運がどれほどのものかを思うとき、その計り知れない恩寵に感謝せずにはいられません。
霊性を導く師に出会えなかった人生も無数にあったでしょうに、こうして本物の師の臨在に触れるところにまで導かれてきた裏には、私一人ではない膨大な積み重ねがあったことを感じます。
だから今回ダルシャンを受けたときには、私をここまで導いてくれたすべての存在と意識をつなげて、ともに抱擁を受けてきました。
今、根本的に自身の在り方を問われている中でのダルシャンは、私にとってはとても深い意味があります。
恐れから行動を起こしてしまう思考体型を根本的に転換し、本当に愛から行動する在り方をこの人生で体現していくのかどうか。
そのためには、片足だけ元の理論体系に重心を残したまま、新しい在り方に転換することはできないので、完全に逃げ道を断って進まなければなりません。
そのことに、今だに不安と恐れを抱えて逡巡しています。進むべき方向は分かっているけれど、まだ踏ん切りがつかない状態なのです。
そんな私には、スピリットの導きが必要でした。
恐れは他者から奪い、自分の取り分を主張し、また奪われることに気を揉みながら、際限なくもっともっとと求めて決して満たされることのない在り様に私たちを導きます。
一方で、愛は無条件に与え、批判なくひたすら受容し、与えるほどに豊かさを増していく在り様です。
口では無条件の愛を唱えながら、実際のところどれだけそれを体現できているのかが、今私が問われていることです。
私の魂は、何をしにここに居るのだろう?と問うたとき、今死んだとしたら、きっと何かしらやり残した感じがするだろうなと思います。
では一体何をやり残しているのか、今の自分は、本当に魂が全身全霊でやりたかったことをやっているだろうか?とさらに問うてみたとき、私が本当にやりたかったのは、愛そのものとして在ることの体現でした。
恐れから奪おうとする今の在り方ではなく、無限の愛から惜しみなく与える在り方です。
そんなものはとても自分の手の届くようなものではないと、夢物語のようにこれまでは考えていましたが、そうではないという感覚がどこか深いところで確信のようなものとして感じられたのです。
与えるのは、有り余るほど持っているから与えるのではなく、与えるから無限にあふれてくるのだという、既に頭では知っていることを、自分で体現して証明しなければ、愛について語ることはできないと思いました。
与えたら無くなってしまうというエゴの恐れを転換して行けるのか。ここに、人生の流れを大きく変えていくカギがあるような気がしているのです。
大それた願いを挫けずに持ち続ける勇気を祈り求めて行こうと思います。
そうでないと、こんな願いなど気が狂ったのかもしれない、魔が差したに違いない、勘違いもいい加減にしよう、等と言って、すぐに怯んで後戻りしてしまいそうです。
何が人生の真実なのか、今死んでも悔いはないのか、迷ったときはこの問いに戻ってくることにしましょう。