日々自分に向かうことをしていると、ワークでとても深いものを解放できて「すっきりした~!」と実感を持てる時もあれば、何だかもやもやしたまま、ちっとも進んだ実感が持てない時もあると思います。けれどどんな状態であれ、どうぞ頑張っている自分を認め、労い、褒めてあげてください。
私自身、なかなかこういうことができなかったので、人に対しても自分に対するのと同じように、厳しく評価していた時もありました。まだ完全にその傾向が抜けたわけではないですが、それでも以前よりは大分マシになっているのではないかと思っています。
理想とは程遠い状態であったとしても、その中で私たちはもがきながら、必死で生きていると思います。そんなに頑張ってないし、と思う方も、ただ自身でその頑張りを認めていないから、頑張っていないと思っているだけなのかもしれません。
自分の努力を自分で受け止めてあげられないと、鏡の法則を通して、「私がどんなに頑張っても、決して認めてもらえない」という現実を引き寄せてくることになります。心当たりがありますか?
頑張っても認めてもらえないという経験をしたとき、あなたはどんな気持ちだったでしょうか?そして、本当はどんな風に接して欲しかったですか?
自分が接して欲しかったように、自身に対してそれをしてあげましょう。そうすることで、あなたがかつて味わった辛い気持ちが優しく癒えていきます。
周囲の人の厳しく冷たい態度は、あなた自身が自分への態度を改めることによって、本当に変わっていきます。なぜなら、周囲の人はただの「鏡」だからです。あなたが変われば、映った鏡の像も変わるのは道理です。
常に自分を「愛しい大切な存在」として接してあげることは、あなたの生きる世界をとても温かく、平和で愛に満ちたものにしていきます。
世の中を平和にしていきたいのなら、まずは隣人を愛する前に自分を愛することです。本当に自分を愛することができたら、他の人も自分と同じように深く愛せるでしょう。
誰かを愛せないと思うとき、その人の中に見ている嫌悪している要素がまさにあなたの中にあり、あなたはそれを拒絶しているということを意味します。
たとえば、誰かの中に「あさましさ」を感じていてそれが大嫌いだとすると、あなたの中にまったくそれと同じ「あさましさ」が存在していて、あなたはそれを分離・隔離して拒絶しているということになります。
自分の中にあれがあるのかと思うとげんなりするという方もあるでしょうが、見せて気づきをもたらしてくれた相手に感謝しつつ、じっとその醜い要素を見つめてみてください。
気分が悪くなって辛いかもしれませんが、じ~~~~っとそれを見つめていくと、あるときパッと気づきがやってきます。「あれ、これって私のことだ」と、理屈でないところで「分かる」んですね。
その気づきがやって来ると、相手への嫌悪はその瞬間に全く消えてなくなります。
けれど、どうしてもあれが自分だと認めたくないというケースもあり、そうなるとどれだけ見つめていても、「あれはあの人のことで、私は絶対にそんなことはしない」という視点に固定されてしまって、気づきはやって来ません。
そして、嫌いな人を見るたびにイライラムカムカしながら、苦しみを引きずることになるのです。
嫌悪していたものがまさに自分だったと気づくことほど、私たちに大きな変容を与えることはありません。世界は大きくその意味合いを変え、あなたはより大きく深い認識の枠組みにシフトしていきます。
だから、受け入れ難いものが人生に現れてきたときは、大きな成長の前触れだと思っていてください。それは成長と変容のための、重要なカギなのです。決して「あっち行け~!」と放り投げてはいけませんよ。(^^)
しかとカギを拾い、次へとつながる扉の前に立つのです。真っ直ぐに、自身と深く対話しなければ、扉の前に立つことすらままならないでしょう。けれどもし立てたとしたら、それだけでもあなたはぐっと成長しています。
今現在、自分が弱虫だったとしても、何ら問題はありません。その弱虫の自分を在るがままに見て、寄り添って在ることができるなら、あなたはもう既に弱虫ではないのです。
本当に強いということは、ただ様々なものをねじ伏せる力が強いということではありません。受け入れ難いものを直視する勇気と、そのことで生じたあらゆる苦しみを受け止める深い愛こそが、真に強いということではないでしょうか。
真の強者は、愛と勇気の勇者なのです。
耳触りの良い概念で終わるのではなく、実践し、体現して在りましょう。