感情解放ワークをやっていると、善悪というものへの概念が本当に変わってきます。もちろん、人間社会に生きていれば厳然とそういうものはあるのは当然ですが、そういう枠組みを大きく超えた深遠な意図が隠されているのをまざまざと見せられたりするので、一概に人間目線の善悪でものごとを決めつけて見られなくなってしまうのです。
たとえば今、誰かがとても困難だと見える状況に置かれているとします。本人も、とても苦しんでいるように見えて、可哀想に、気の毒だ、大変だろう、何て不幸な人なんだと思うかもしれません。
こんな状況にあるとき、実はそれが魂のレベルでは、待ちに待った状態であり、その中でしか為し遂げることのできない学びを得ようとしている祝福の時間だったりします。
本人の顕在意識レベルでは絶望のどん底であったとしても、魂としてはどうしてもそれを通過して、変容していきたかったのですね。
よく、スポーツでもアートでも、自分をギリギリのところまで追い込んで限界を突破していくという例があると思いますが、誰にでも、人生でそういうテーマがあるのではないでしょうか。
そういう状態にある人が側にいるとき、私たちはどんなスタンスでいることが良いでしょうか。
たとえば、どんなアドバイスも受け入れず、自分の殻にこもってしまったような人とか、大きく道を外れてしまったように見える人、周囲のだれかれ構わずに迷惑をかけまくっている人などなど。
あまりに迷惑を周囲にかけまくっている人に対しては、社会常識的なレベルの対処はもちろん必要だろうと思います。
ただ、それ以外のところでは、まずはその人を見たときに自分が「どんな気持ちになっているか」というところをしっかり自覚しながら行動していかないと、その人に対して良かれと思ってしたことでも、あまり良い結果にはつながりません。
というのは、その人を見たときにトリガーされた自身の痛みによって行動に駆り立てられるということは、純粋に相手の人のための行動ではなく、自分の中の落ち着かない気持ちを収めるための代償行為になっているからです。こうなると、その行為はいわゆる「偽善」と呼ばれる類のものになります。
つまり、「相手のため」と言いながら、実は「自分自身のための行為」だからです。偽善は、本当に相手のためになる行為とは違って、受け取った相手に押しつけがましさや重さを感じさせたり、本当にその人が必要としたものとはかけ離れたちぐはぐなものになってしまったりしまうのです。
だから、まずは相手を見たときに、自分の心の中に何らかの痛みの感情が浮上していないか、注意深く見て浮上しているのなら、しっかりとワークして受け止めておくことが第一です。
これができた上で、改めて相手を見たときに、その人が本当に必要としているサポートをすることができたり、相手に失望して見捨てたりすることなく、その人の可能性を見てじっと見守ることができるようになるのです。
こうした在り方でとても良い見本だな、と私が思うのは、天皇皇后両陛下です。
両陛下は、よく被災地の方々に対して「心を寄せていきたいと思います」という言葉を使われることがあります。ここには「同情」というようなものは一切なく、あるのはただ、その方々の深い心の痛みに寄り添いつつ、共に在るという慈しみの心だと私は感じます。
「同情」はどちらかと言うと、自分の中にトリガーされた落ち着かない気持ちに巻き込まれ、駆り立てられた心の在り様です。この状態では本当に他者の心の痛みに寄り添うことはできないのです。
巻き込まれる「同情」と寄り添う「共感」の違いをよく認識し、本当に寄り添える在り方ができたら、と思います。
その上で、自分や他者の人生に色々起こる眉根を寄せるような出来事や誰もがうらやむような事象の数々を思うとき、人間目線の善悪を見るのではなく、魂がそこから何を得ようとしているのか、魂のチャレンジ、あるいは神の意図をこそ見たいと思うのです。
もちろん神の意図など、到底私たちに計り知れるようなものではありません。であるならなおさら、私は自らの視野を善悪の二元性で固定させたくはないのです。
神は、「悪の極み」と見えるものさえも、ご自身の計画の手段に使います。(私は神を人格を持った存在として認識してはいませんが、便宜上このような表現を使います)
そうしたものに関わった人が、悲劇の中から「真の神の意図」を汲み取った時、その「悪の極み」と見えたものは、確かに「神の御手」だったことに気づきます。そして「悪」を演じた存在もまた、その瞬間同時に昇華されるのです。
これが魂の錬金術・アルケミーです。
とてもとても、高度な学びですね。ときに、これを解くのに何生もかかるかもしれません。それでも、魂は超えていきたいのです。自らの無限の可能性を証明するために。
鮮烈な光の中に絶望的なまでの闇を見、耐え難い闇の中に想像をはるかに超えた神聖な光を見たとき、あなたは真の神を知りつつあるのかもしれません。