明後日は満月ですね。特に今月の満月は「ウエサク満月」と呼ばれ、特別な意味を持っています。このウエサクの起源はインドにあり、お釈迦様の誕生と悟りを開いた日、入滅の日が全てヴァイシェーカ月(インド暦の第2月)の第一満月だったという伝承から来ているそうです。
ウエサクという聞きなれない言葉は、このヴァイシェーカがなまったものと言われています。ウエサク満月を祝う習慣はタイやミャンマー、チベット、タイなどアジア各地に広がって、日本でもこれに合わせたお祭りをするお寺などありますね。京都の鞍馬山のウエサク祭は有名です。
そんな特別な満月の日に、サロンでも瞑想会を行います。ここのところ、夜空に浮かぶ満ちつつある月を見ていると、とてもパワーが強いな~と言う印象があるのですが、満月の日はパワーマックスになりますね。まだお席はございますので、興味のある方は是非お越しください。お申込みはこちらからどうぞ。
さて。今週の無料遠隔ヒーリングは「人生を導く大きな力(神)」がテーマなので、神について色々と思うことが多くなっています。
私たちは日々、様々な出来事の中で揺れ動く心情を体験します。今日はとても幸せだった!と思う日もあれば、次の日には人生最悪の日だったということもあるでしょう。
一喜一憂する気持ちに振り回される中で、変わらず神に意識を向け続けることはなかなかのことだと思ます。
私自身、今は在る意識状態になればいつでもプレゼンスの神に触れることはできるようになっているのですが、日常の心乱される出来事の中で、神へ意識を向けることを容易く忘れ去ってしまいます。
本当は、普通にしている状態でいつでもそれを感じられているのが良いのでしょうが、まだまだですね。
できる限り細切れの時間を見つけては自身の内側に居るこの神に触れるようにして、少しずつの積み重ねで、自分の存在のあらゆるレベルに神が体現できればいいな、と思っています。
大胆な願いかもしれないと思う一方で、それは本来の人間の自然な在り方であり、全ての人が当然そうであるべきだとも思うのです。
神と人間とのつながりを言うとき、少なからぬ人が、神に自分の意思をねじ伏せられて支配されてしまう!と感じるようです。私自身もかつてそのように思っていたことがあるのですが、実際神に触れてみれば、それはそういう類のものではないことが分かります。
そのような人は、恐らく魂の記憶の中で、神の名のもとで耐え難い苦しみを味わってきたのだと思います。私自身もそうだったので、今でこそかなり癒えてきていますが、かつては「神アレルギー」でした。どんなに頭で違うと分かっていても、それとは関係なく苦しいアレルギー反応は勝手に出て来てしまうのです。
そのアレルギーを癒せたのは、神に関するたくさんのネガティブなストーリーに絡みついていた未完了の感情を解放してきたからです。ある程度の時間をかけて段階的に癒えてきたのですが、神に本当に向き直る覚悟ができたのは、つい最近のことです。
神との関係がこじれているということは、すなわち自分や世界、他者とのあらゆる関係がこじれていることになります。だから、自分は無神論者だから関係ないとかいうことではないのです。
概念ではない、リアルな神は、今この瞬間にも全ての人の中に存在しています。そしてそれは、一部の特別な人だけが触れることのできるというものでもありません。おそらく、ここに触れずに意義ある人生を歩むことはできないのではないかと私は思っています。
私たちは、概念の神にすら、自分が苦しい状況に突き落とされると、途端に「見捨てられた。助けてもらえない。神は当てにならない。神なんていない!」と自ら神から離れていくことがよくあります。
けれど本当は、辛い状況になったときほどしっかり神に意識を向けていることが大切です。とは言えそれは、なかなか一筋縄ではいかない難しさがあります。
じりじりと不安に身を焦がすときや、荒れ狂う感情の嵐に我を見失いそうになるときでも、神を思い出し、そこに意識をじっと向けられることは、聖者の言葉の通り、まさに恩寵であると思います。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私を覚えていることが恩寵である」と言いました。
出会っても、すぐに忘れていく人もいたり、さっぱり覚えない人、そもそも出会わないという人もいます。そんな中で、出会い、今日覚えている。翌日も朝目が覚めたらまだ覚えている。1週間後、1か月、1年、5年後にまだ覚えているということ自体、確かに恩寵以外の何物でもありません。
そういう意味で、私も師であるレナードの存在をまず知ったことが最初の恩寵であり、実際に会えたこと、その後今に至るまで離れずにその教えを実践し続けてこられたことが、どれだけの恩寵なのか、思わずにはいられません。
苦しいことがあるとき、自身の内なる神を思い出せる恩寵、そこに深く意識を向け、導きに触れられる恩寵、それを繰り返し、継続し深めて行ける恩寵。そうした恩寵を、祈り求めて行きたいものです。
人生は、とかく迷いやすいものです。意識を定めるものがなければ、容易く自身の居場所を見失い、混乱してしまいます。どうぞ自身の深奥に深く根を下ろして、「否定のしようのない真実」に触れていかれますように。
私たちが、人生に満ちている恩寵の数々に気づくことができますように。