昨日は感情解放ワークショップでした。ゴールデンウィーク中にもかかわらず、ご参加くださった方、ありがとうございました。
最近、私は感情解放をする方の「ある部分」を特に注意深く見るようになっているのですが、何だと思いますか?
感情をちゃんと感じられているかとか、意識が身体の中にしっかりあるかとか、そういうことではありません。もっと根本的なところですね。
正解を言うと、「この方は、これまで背を向けてきた自分の側面と、本当に和解したいと思っているのかどうか」というところをじ~~~~っと見ています。
ご自身の中で、どうしてもそれをしなければならないのだという必然性があって、それをしたいのだけれど自分ではなかなか難しいのでサポートを受けたいというスタンスの方は、セッションをしても必ず成果を出して、たくさんの気づきと変容を得て帰って行かれます。
逆に、自分と向き合いたいと口では言っていても、実際のところは拒絶している側面を消し去りたいだけで、和解する気なんてさらさらないという方がセッションを受けると、掘り下げや統合の誘導も、何とかして痛いところには触らないようにと必死で逃げ回るばかりで、時間終了までいかに逃げ切るかというところに終始します。
感情解放のワークでやるのは、「自身の最も受け入れ難い側面を認め、抱きしめ、統合すること」であり、二度と現れないように切り捨てて消し去ることではありません。
この辺り、このブログでも繰り返しお伝えしてきているので、これまで読んでくださっている方はよくご存じのことと思います。けれど、頭で理解することと実践して肌で知っていることは、全く別のことです。
自分と向き合うということ、受け入れ難い側面を抱きしめるというのがどういうことなのか、それは本当に実践した人にしか分からないことです。
試しに今、自身が最も受け入れ難いと感じている側面に、じっと直面(向き合う)してみてください。そしてどう感じるか、よく観察してみましょう。
たとえば、同僚よりも著しく仕事の能力の劣る自分とか、後輩のAさんよりも容姿が劣っている自分といった、できない、ダメな自分をイメージしてみるのです。
その自身の側面を、それが自分であると、在るがままに認めてもいいでしょうか?
絶対に認めたくないし受け入れるなんてもってのほか!と思う方もあるでしょうし、必ず受け止めよう、あるいは辛いけれど何とかして受け入れられる自分になりたいという方もあるでしょう。
どちらがいいとか悪いとかではないのですが、ただそれは本人の在り方の選択です。そしてその選択には、それぞれの結果が必ずついてきます。
「ダメな自分」を認めてしまったときに良く私たちの中に湧き起こる感情が、敗北感だったり無価値感、虚無感、無力感、絶望、口惜しさ、悲しみ、惨めさなどです。どれもできれば人生で味わいたくない感情だと思います。
これらを避けたいが故に、絶対に認めない!と頑張っているのでしょうけれど、実際のそれらの感情は既にその人の奥深くに在るのです。在るけれど、無いことにして、「自分はそんなんじゃないんだ!」と言い張っているわけですね。
どぎつい言い方をすれば、自分を裏切って嘘をつき、外に対してまがい物の仮面をかぶって体裁を取り繕っているわけです。
このように生きている方は、「人を裏切って嘘をつき、外に対してまがい物の仮面をかぶって体裁を取り繕っている」誰かを見ると、「許せない!」とものすごく反応します。「あんなのはあり得ない!最低だ!」と徹底的に非難し、世間の常識などを盾に自分の意見の正当性を疑いません。
けれどそれはただ、自分自身が自分や誰かに対してやっていることを、鏡として見せられただけなのです。
大嫌いで許せない相手を見て、あなたはその中に自身の姿を真っ直ぐに見て取り、自身の糧とする準備はできているでしょうか?
自分が「あんなこと」をしているのだと知ったら、相当ショックを受けるかもしれません。けれど甘んじてそれを受け取り、本当に変容していきたいのだと思えるでしょうか?
ワークの敷居を殊更に上げたいわけではないのですが、本当に真摯に自分に向き合うということは、しばしば厳然たる覚悟を求められることがあります。
進めば進んだなりに、そのステージにおける覚悟を繰り返し確認されるでしょう。
当然、逃げ道もなくなっていきますし、ずる賢く曖昧にしておくということもできなくなっていきます。
たとえば、本当に嫌なことはできなくなっていくので、自分をだましだましやっていたことなんかはできなくなっていきます。そうなると、それで得ていたメリットも得られなくなっていくので、必然的に自身の在り方を一部ではなく、全体的に変革していく流れが起こってきます。
本当に自分に向き合うって、そういうことなんですね。
もちろん、そういう覚悟が定まっていれば言うことなしですが、その手前で揺れ動いているけれど、でも最終的にはそこをやっていく必然性を感じているという方も、どうぞセッションなりワークショップなりのサポートを使ってください。
最終的な方向性に同意があるのであれば、揺れ動く部分を処理していく方法はあるので、サポートは有効に働くでしょう。
扉の前に立たなければ、その時の気持ちはわかりません。いずれにせよ、まずは扉の前に立ってみて、その時の自分が「無様な自分」でも「予想以上の自分」でも、在るがままのその自分からスタートするのです。
さて、あなたはこの「始まりの扉」の前に立つでしょうか?