前日の憎しみの解放のワークで、「憎しみを解放するときはしっかり憎まなければならない」ということを実感したわけですが、私たちの多くはこうしたいわゆる「ネガティブ」と言われる感情は「良くないもの」と教えられることも多いので、自分に憎むことを許せるかどうかというところもチェックポイントになるでしょう。
自分に憎むことを許せていないと、自分の中に憎しみがあってもそれに気づくことができませんし、ましてやそれを浮上させ、表現することなど不可能になっていまします。
セッションなどでもよく聞かれる言葉ではあるのですが、憎しみという感情を持っている自分にとても失望するという風に言う方があるのです。
誰しも、自分はみんなから好かれる良い人であった方が良いし、慈悲深く、愛嬌があって素敵な人でありたいと多かれ少なかれどこかで思っている部分があると思います。
だからこそ、そうした理想とは正反対の要素を自分の中に見つけたとき、がっかりして自己嫌悪に陥ったりするのです。
自分の中のより深いネガティブな要素に向き合っていくには、前段階として、そうしたものを口先だけではなく、真に許容できる自分になっている必要があるでしょう。そして、大きな感情のエネルギーを心と体で受け止められるだけの「心の筋肉」がついていなければなりません。
地道なワークの積み重ねが、こういう時に生きてきます。
様々な自分の側面を否定せずに在るがままに見ることができ、そして受け止められる力がついて初めて、浮上して来る深い痛みがあります。
ワークで、抑圧された感情を受け止め、統合するほどに楽になっていくのは確かですが、同時に受容の器も育っていくので、それまで出てこられなかったより大きな痛みが出てくるようにもなるからです。
ワークでは、その時々で浮上するものも違ってきますし、自分自身の状態も違うでしょう。注意深く自分を観察して、どんな状態にも執着せずに、今差し出されている現実とともに在りましょう。
もっとこうでありたい、こんな風だったらよかったのに、そうなるべきだ、という理想を追うほどに、自分でも気づかぬうちに自己否定をしてしまったり、「未来への期待」というマインドのストーリーに足を取られてしまうことがあります。
今この瞬間の差し出すものを選り好みせずに受け取って行く取り組みは、かなりの注意深さと洞察力を要します。一歩一歩、丁寧に進めていきましょう。
ここまで解放を進めてきて、特にリトリートから帰って来てから、まだのこっているものはあるものの、大分憎しみや悲しみなどの感情を解放できたせいか、プレゼンスの感覚がぐっと深くなっているのを感じます。
以前はどこかボンヤリしていた視界が、ピタッとクリアな領域にはまったり、意識の奥に感じる静寂の光の感覚が、より強くなっている感じはします。根源からの光が、妨げられることなく意識にクリアに感じられるのは、何とも安らかな感覚です。
こうしてみると、やはり抑圧された感情がいかに私たちの意識がプレゼンスに在ることを妨げるのかが良く分かります。
取り組みを進めれば進めるほどに、より荒いエネルギーはクリアになって、さらに繊細なレベルのエネルギーに取り組むようになります。その段階段階で、ワークの質もどんどん変化していくことでしょう。
最近感じるのは、大きな感情を解放するのも大切ですが、今この瞬間に居ることを微妙なレベルで妨げてしまう願望を抱いていることに気づくのは結構難しいということです。
では、どんな希望も期待も持たない方がいいのかというと、多分本当にプレゼンスに居たら、そういうものは無いのかもしれません。今ここにない、どんなものをも欲しないで、今ここに満ち足りているには、不足感などがかなり癒されてないと難しだろうと思います。
逆に言えば、こうした微妙なレベルの不足感や未来への不安感などが癒えたら、かなり深いプレゼンスに居られるのかもしれません。
いずれにせよ、今はどれだけ深く今この瞬間ここに在るものとともに在ることができるか、ということをテーマに日々を過ごしています。
街を歩くとき、目的地に心が泳いでいないか、お皿を洗うとき、次の作業に意識が飛んでいないか、部屋を移動するとき、心が過去の出来事や未来の予定に迷い込んでいないか。
常に前のめりの意識で過ごしてしまいがちな自分を「今ここ」に引き戻して、人に向き合うように、「今ここ」に深く向き合っています。