今年3月下旬から起こったミッションに関する気づきによって、近頃は自分自身のミッションを深く受け止め、それを生きていこうというコミットメントが強くなっています。
40もいくぶん過ぎた年になって、ようやくそれを知り、受け入れられるようになったのだなぁと感慨深く思います。
というのも、私は中学の卒業文集で、確かに自分の使命を見つけ出してそれを全うしたいというようなことを書いていたからです。
あれからウン十年。(綾小路きみまろみたいですね(^^;)色々あったけれど、人生を諦めずにここまでたどり着けて良かったなぁと思います。
この年齢が早かったのか遅かったのかと言われれば、私にとってはまさにベストのタイミングであり、これ以上早い時期も考えられなかったし、やっぱりそれだけの年月が必要だったと思います。
機は自ずから熟すもの。まさにそう感じます。
自分でどうこうしようとしてどうにかなるもんじゃない。ただやってきたものを在るがままに受け止めながら生きていったとき、最高最善になるようになるのだと思います。
そんなことを考えていたら、ある言葉を見つけました。
以前読んだダン・ミルマンの「聖なる旅―ピースフル・ウォリアー」(徳間書店刊)の一節をメモしたものをスマホに入れていたのですが、たまたま読み返してみたら、今にぴったりの言葉でした。
エゴが神の腕の中に溶け込んだとき、心は神の意思に溶け込みます。自分の人生をコントロールしたり、ある特別な方向にゆかせようとしなくなると、あなたは生きるのをやめて、生かされ始めます。あなたはより大きな目的、『より大きな絵』と合体するのです。あなたは道になります。道から離れることによって。
これを読んだのは去年の初めごろでしたが、その時は「頭では分かる。けれどそれをどうやって実践したらいいのか、わからない」という感じでした。
が、今ならこれが良く分かります。1年前の私になかったものが、今の私にはあるからです。
それは、これまでの積み重ねによって神と和解しグルと和解したことで、自身の命の源に真っ直ぐに向き合う覚悟が定まったこと、つまりコミットメントです。
このことで、私の中の奥深くでずれていた何かがピッタリとはまり、ぐっと存在の根が深くなった実感が自分でもあります。その状態になって初めて、私にとってミッションとは何なのかがようやく分かったのです。
これまでの歩みのどれ一つが欠けても、ここにはたどり着けなかったでしょう。すべてのパズルのピースが必要だったのであり、今、それらが完璧に美しい絵の一部であることが分かります。
それまで、私にとってミッションとは自分を犠牲にして苦しみながら果たさねばならないもの、決して報われることのない虚しい作業、自分の無価値感を埋めるための安っぽいスローガン、幻想という名のストーリーといった、およそ関わりたくないものというイメージのオンパレードでした。
けれど、今は違います。
ミッションとは、ダン・ミルマンが美しく格調高い言葉によって表現した『より大きな絵』の中に溶け込むことであり、それは一部の限られた人のための特別なものなのではなくて、私たちの誰もが本当に自分自身を生きたときの在り方なのです。
大いなるものに委ねようとするとき、それに対するトラウマのような体験があっては、サレンダー(明け渡し)は不可能です。だから私は繰り返し、神の名によって魂が味わってきた過酷な苦しみに向き合う道のりが必要でした。
そしてそれができるようになるために、あらゆる感情を受け止められる心の筋肉や洞察力などが育っていなければなりませんでした。
これらを準備するため、魂は実に周到に私の人生を導いてきたのだと、今振り返るとその過不足ない完璧なシナリオに感嘆するばかりです。
私たちのすべての歩みは、自身の真のミッションを生きるように導かれています。だから、今この瞬間が苦しくとも、自分も他者も責めずにその場で自分にできる最善を尽くすことです。
そこで身に着けなければいけないことがあるから、それを体験しているのです。その目標が達成されれば、ステージは自ずから変わっていくでしょう。だから、今を嘆くことはありません。願わくば、そこで拾えるものは全部拾うくらいの気持ちを持てれば幸いです。
というわけで今週のテーマはこちら。
真に魂のミッションを生きるのを妨げているあらゆる痛みを解放するよう、最高最善に働きかける
参加される方は、「無料遠隔ヒーリングの受け方」ご覧になり、 ご理解のうえ4月26日(水)17:00までにメールまたはメールフォームにてお申し込み下さい。 同日20:00より順次働きかけを行っていきます。