仕事柄、色々な方から様々なご相談を受けることは多いのですが、最近、私の中ではかなり古いパターンのテーマをトリガーする出来事が立て続けに起こったので、これはまた注意して取り組まなければ、と思って見ています。
ヒーラーになりたての頃、様々なヒーリングのエネルギーやテクニックを使ってできることがたくさんあることに、なんでもできるんだ!ととても安易に考えていたことを覚えています。
そんな風に思えたのは最初だけで、やっていく内にとてもそんな簡単なものではないのだな、ということはすぐに分かったのですが、それでもできることはまだまだあったので、おこがましくも、色々な人を「救ってあげたい」と思っていたことは確かです。
ヒーラーにとって、こうした思いは色々な意味で、非常に注意を要する思考になります。
なぜかというと、「救ってあげたい」と思うと「救ってほしい人」が引き寄せられてくるからです。けれど、本当のところ、ヒーラーが他者を救うなど、できることではないのです。
クライアントさんが良くなっていくのは、ヒーラーの力なのではなく、その方自身の内からやってくる力によってそうなるのであって、そこを取り違えてしまうと、エゴのパワーの押しつけて、その人が内なる力につながっていく機会を奪った上に、グロテスクな共依存関係を構築してしまいます。
そのようなことはクライアントさんにとって真の救いにならないばかりか、「百害あって一利なし」だし、自分もボロボロになっていきます。
幸いにして私はレナードに出会うことでそうした勘違いから脱する機会を得ましたが、今でも、その人が本来引き受ける学びの機会を奪っていないか、私のサポートはその人自身の内なる力につながっていくために働いているのかと、日々問うています。
そんな中で起こったある二つの出来事は、私がまだクリアできていない要素を見事に突いてきていると感じました。
仕事の上では、私もかなりその辺りの境界線は引けるようになってきたのではないかと思うのですが、友人など、よりプライベートな関係において、曖昧になっている部分があるようなのです。ワキが甘いんですね。
ヒーラーという仕事は、私にとって単なる仕事ではなく、私というアイデンティティと不可分に結びついている「在り方」そのものです。故に、ここから先は仕事で、ここまではプライベートね!という線を引くことはなかなかに難しいのです。
その状態で人と関わっていくと、無意識なのですが、気が付くとみんなの心のケアやサポートをするような状況になっていたり、こちらから何か水を向けているわけではないのですが、相談を持ち掛けられるということがよくあります。
簡単にお話を聞いて、一言二言アドバイスを差し上げることでその方が「そっか~♪」と気づきを得るというくらいだったら何の問題もないのですが、聞いている内にどんどん深いところに引き込まれて行くケースもあって、そうなると、「ここから先は仕事になるよ」というのを言うタイミングを逃してしまうこともあります。
相手の方も、その辺り分かっていてあえて曖昧にしているのか、夢中になりすぎていて一線を越えてくるのか、そのどちらなのかもしれませんが、なかなかに切り分けるのは難しいことがあります。
まぁそれは私の隙ゆえの言い訳なのですが、エネルギー交換のないこうした関わり合いは、終わった途端にひどく消耗する感じと、モヤモヤした感情が残ります。
決してその方を責めているつもりはないこと、あくまでこれは私のストーリーであることをお断りしたうえで、私の中のどんな在り方がこの状況を引き寄せているのか、今一度しっかりと向き合っていかなければならないと思っています。
というのは、これは私だけではなく、相手の方にとっても健康的な状況ではないからです。
ずるずるとこのような状態を引きずってしまった結果、その人が真に自身の内なるパワーにつながっていく機会を奪っていたのかもしれない、と思うこともありました。これは、私が最も嫌う在り方の一つです。
なぜ、私はバウンダリー(境界線)を保つことができなかったのか。
やはり、「助けてあげたい、役に立つことがあるのなら」と、表面的なところだけを見て引きずられてしまったということなのでしょう。そしてまたそこには、「良い人でありたい、悪く思われたくない」という、打算もあったことは確かです。
つまり、私は取引をしていたことになります。いわゆる、パワーゲームですね。「あなたの欲しいものをあげるから、私を大事に思ってね」という取引です。
レナードがすごいな~と思うのは、相手がどう思うかなんてことにはまったくお構いなしで、意識の一片もそんなところには無いというところです。彼が全幅の信頼を寄せ、コミットメントしているのはプレゼンスのみ。
何かの本で、「覚者は人の法には従わない。ただ真理の法にのみ従う」という言葉があったのですが、まさにその通りです。
相手は困っているし可哀想だから、というのはあくまでエゴの見たストーリーであって、私はもっと深いところに流れる「真理の法」を見て、それに従えるようにならなければいけないのでしょう。
もっと、根本的に「真理の法」に溶け込んでいけるように。そんなことを思った出来事でした。