サロンには様々な方がいらっしゃいますが、みなさん、少しでも今をより良く生きようと、あらゆる模索を重ねているのだろうと思います。
そんな中で、しばしば人生の大きな転換期の真っただ中か、あるいはその少し前にいらっしゃる方が多いような気がするのですが、見るべきものをしかと見、行動すべき時に時を移さず行動できるかで、人生の荒波の時期を超えていく心情が随分違ってくると思います。
私たちは大抵、人生で大変な時期を迎える前には、何かしらのサインを事前にあらゆる方面からもらっているものです。
私たちを守り導いてくれる存在も、「気づきなさい。方向転換しなさい。備えなさい」というようなメッセージを一生懸命送ってくれているのですが、しばしばそうしたメッセージに私たちは意識、無意識的に耳を塞ぎます。
なぜなら、それを聞いてしまったら、自身のこれまでの在り方を大きく変えていくプロセスに踏み出さなければいけないということが分かってしまうので、それが恐くて仕方がないからです。
そのようにして逡巡している内に、準備すべき時間を無為に過ごし、荒波に突入していく方もいないわけではありません。
私たちはしばしば、自分がどうしたらいいか分からない、それを知りたいと言います。そういうとき私たちは、ほぼ自身の内なる声につながれていません。そして、その状態でいることに対するメリットがあるので、そうなっているわけです。
内なる声は、心地いいことばかりを伝えてくるわけではありません。心地良いこともそうでないことも同じように受け取って、応答していく姿勢に転換して行くということに、同意できるのかどうか。そこが内なる声につながっていくために、どうしても必要なポイントなのです。
どうしたらいいの知りたいと言いながら、それに応えるつもりが無いのなら、内なる声は決して聞くことはできません。
人生の転換期というのは、この辺りについて軌道修正を求められることが多いように思います。そしてそれはしばしば、私たちが最も苦手とするところなのです。
心にも慣性の法則というのはしっかり働いていて、私たちは慣れ親しんだところに居着きたいという傾向があるものです。けれど、そこが既に自分に取って賞味期限切れになっているのにしがみついてしまうと、人生のあらゆる部分に無理がきます。
人生の荒波は、そうした私たちの習性を見越して、否応なく私たちを次のステージへと押し流していきます。それは、ある種の恩寵であり、魂の抑え難い成長への欲求の表れといえるかもしれません。
大きな変動の時期だからこそ、私たちはしっかりと自身の拠るべき軸を見つけていくことが大切です。
今まで、自分の軸を持っていては人生を穏やかに過ごせなかった人もあるでしょう。自分を殺して、相手に合わせることでどうにか今まで生きてきた人は、自分の軸を持って生きていく在り方に転換して行くことになるわけですが、散々否定されてきたその軸を改めて建てようとしたときに、過去に受けた傷が浮上して来るのです。
それに向き合い、癒していくことで、自分が本当は何を感じ、どうしたかったのか、自身の尊厳を持って表現することができるようになっていきます。
頭だけの掛け声だけでできる部分ばかりではないので、こうした心の構造をしっかりと知った上で、いたずらに自分を責めることなく、使うべきエネルギーを効率的に創造的な方向へ向けられるように、取り組んでいかれるといいでしょう。
消し去っていた真実の自分に出会っていくプロセスは、決して苦しいことばかりではありません。とても深い安ど感や安らぎ、自信、在るべきところに在る調和した感覚などが戻ってきますし、現実も様々な変化を見せていくでしょう。
恐い、辛いという部分にばかり囚われていると、足はすくむばかりです。そうではなく、その先に広がる自身の可能性をしっかりと見て、プロセスを超えていく勇気を祈り求めましょう。
自身の可能性を深め、広げるチャンスを、存分に活かすことができるように。これ以上ない充実した期間だったと思えるように。
みなさまの歩みが、恩寵とともに在りますように。