ここのところ、忙しさにかまけて浮上している感情にしばらく取り組んでいなかったのですが、もうそろそろ先延ばしにできないな~という「感情のカケラ君たち」からのプレッシャーを感じたので、少し時間を取って取り組んでみました。
最近取り入れたあるツールのせいか、奥深~くに沈んでいたものが一気に上がってきた感じで、感情解放を出産に例えると、赤ちゃんが産道をゆっくり降りてくるみたいな感覚があります。(今世では出産経験はありませんが、多分そんな感じでしょう)
要するに、カケラ君たちはもう出てくることを決めていて、後戻りはできない。さぁ、覚悟を決めなさい!という有無を言わせぬプレッシャーです。(^^;
そちらがそのつもりなら、覚悟を決めるしかありません。というわけで、慌てて出産体勢を整えたというわけです。
最初に出てきたのは、気が狂いそうなほどの閉塞感で、「ここから出してくれ!」とパニック状態になっている混乱した感情が出てきました。
「ここに居たくない!」という心身ともに耐え難い苦痛をゆっくりと呼吸をしながら、肉体からズレそうになる意識をしっかり肉体に留めながら、そこで起こっていることを起こるがままに起こさせていきました。
感情解放をする時は大抵、背骨の辺りがバキバキいいながらエネルギーが動いていくのを感じるのですが、今回はその感覚と同時に、「ハートが引き裂かれて行くような感覚」を刻々と体感していました。
このまま気が狂わずに身体の中にいたら、ハートが壊れてしまうというような状況の中で、身体の中に居て起こるように起こさせていくことにしました。
すると、まるで筋繊維が一本一本、順番に引き裂かれて行くかのような感覚がハートで起こって行きました。そんな様子も「本当にハートというのは引き裂かれるのだな」とどこかで見ている自分がいたのですが、それはかつてある人生で死の瞬間を体験した時と同じ意識の感覚でした。
冷静に見ているけれど、同時に激しい感情のエネルギーからも離れてはいません。
「ハートがそんな状態になって、ヤバいんじゃないか?」という不安も起こることもなく、起こるように起こって行くことに対する、不思議なほどの信頼感がありました。
ハートが引き裂かれて行くこのプロセスが一段落すると、それまでずっと重苦しかった胸の辺りはすっきりと透った感じがして、より深い響きが感じられるようになっていました。
「ここに居たくない!」と叫んでいた男性も消えて、今この瞬間にストン!と居られる感じです。
それから、少し休憩を挟んで第2ラウンドに入って行きました。再び胸から下腹部にかけて重苦しい反応があって、フォーカスしていくと深い悲しみでした。私は白髪に豊かな髭を蓄えたレオナルドダヴィンチのような老人で、幼い孫娘を失った悲しみに打ちひしがれていました。
私にも孫がいた人生があったんだ、とどこかで感心する自分がいましたが、その老人の悲しみにフォーカスすると、身体の中心から混乱した悲しみが噴き上がってきました。
孫は3歳くらいの本当に可愛らしい女の子で、彼女はこのお祖父さんと大の仲良しでした。年老いたこの男性にとって、彼女は生きる希望のすべてのような、自身の愛を注ぐかけがえのない存在でした。その大切な孫が、はやり病であっけなく死んでしまったのでした。
世界が終わってしまったかのような深い悲しみの闇の中で、老人は激しく混乱し、自身の悲しみを持て余していました。
神はなぜこの老いさらばえた老体を召さずに、まだこれから花開いていこうとするまだ幼い命を召されたのかと、神を責めたり自分を責めてみても、耐え難い苦しみから逃れることもできず、老人は孫娘の死を受け入れることができていませんでした。
その内に、老人は孫娘がいたということ自体を消し去ろうとさえしましたが、それをすることは大切な彼女との思い出までをも手放すことになるという葛藤の中で、心身ともに疲弊しきっていました。
多分、この人生では悲しみの内に人生を終えているような気がします。
ゆっくり、深く呼吸をしながらその混乱と悲しみを受け止めていきましたが、そのボリュームはあまりに大きく、後から後から体の奥深くから新たな悲しみが湧き上がってきました。
しばらくただただ湧き上がって来るものを受け止めていたら、やがて、孫娘の死を否定することは、彼女の人生そのものを否定することだ。誰にそんな権利があるだろう。私は彼女が精一杯生きた人生のすべてを受け入れよう、と思うようになりました。
死を否定することでその事実によって浮上する悲しみから逃れていたものを、死を受容することでやってくる悲しみを受容する選択をしたのです。
孫娘のためにも、一人の立派な人間でいたいという思いが強くありました。臆病者の祖父ではなく、大切な存在に、勇敢な姿をみせてやろう。そう思ったのです。
どこまでも魂の奥深くまで続く悲しみのエネルギーを、身体でしっかりと受け止めていくと、やがてビジョンの中で老人は亡くなった孫娘のエネルギー体を、微笑んで見るようになっていました。
彼女は悲しみに暮れる自分の祖父を心配してずっとそこに居たのですが、悲しみの中にすっぽりと包まれていた老人には彼女が側に居ることが分からなかったのです。
こうしてこの悲しみが一段落すると、さらに深く、軸が透った感じがしました。
起こることを起こるように起こさせずにそれに抵抗すると、長く苦しみを引きずることになるのだなぁと改めて感じました。
ちゃんと今この瞬間に居て、その体験を生き切るのなら、ハートが引き裂かれても、「大丈夫」なんですね。
表現としてはちょっとエグイというか、できれば体験したくないことだと思いますが、存在の可能性として、記しておくことにします。