先日の瞑想会の時に、話の流れの中で、同じ言葉を使っていても指している内容が全く違うことがある、というような話をしたのですが、これは具体的な対象物に限らず、抽象的な概念についても言えます。
たとえば、最近はあまり読まなくなっているのですが、以前は私もスピリチュアルな分野の本を色々と読んでいました。同じようなテーマを扱った本だと、使っている言葉も同じようなものがあちこちで出て来て、ぱっと見、同じことを言っているのかと錯覚することがあります。
けれど注意深く読んでいくと、ある人の書いた本はしっくり馴染んで、行間に表現されている宇宙観のようなものが垣間見えるようなときもある一方、別の人の書いた本は、同じ単語を使っていながら、そこに何の響きも感じられないということもしばしばあります。
あるいは、同じ単語を並べているのに、その言葉で表現しようとしているものがそもそも違うものだったり、領域の広さや深さが全く違うということもあります。
私たちは、意識・無意識の内にそうした「言葉という記号」で表された著者の見えない意識も読み取っているので、明確に「ここが違うのかな」と認識できなくても、何となく違和感を感じたりして、自分の在り方との相性などを見極めたりしているのかもしれません。
こうしたことは、言葉の表現だけに留まらず、音楽や芸術分野ではさらに如実に表れるものなのでしょう。同じ歌を歌っていても、どうしてこれほどまでに人によって心を揺さぶる歌になったり、単なるBGMになったりするのか、そこには技術以上のものがあるのは確かです。
特に日本には、「型」の奥に極限まで研ぎ澄まされた精神性を込めるという伝統的な文化があるような気がするのですが、たとえば俳句などはその良い例です。
5・7・5の文字の中に、その場の状況や人物の心情、過去や未来といった時空間の広がりまでをも繊細に表現しようとする文化は、世界にも例がないのではないでしょうか。
そうした技術が文化としてあるということは、翻って言えば、私たち日本人の共通意識として、それが認識できる能力があるという前提があります。
一部の人にしかそのわずかな言葉の奥に表現されたものが読み取れないのだとしたら、それが文化として長く定着するはずがないからです。
日本画が極めて二次元的な表現であったり、日本の伝統的な音楽が西洋の音楽とは全く違った理論の上に成り立っているのも、音や空間、時間の「間」に確かに表現されているものを私たちが読み取っているということなのだと思います。
だから、明らかに分かっていることについて敢えてさらに説明する必要はない、ということでそこを省く。省くけれど、それが分かりにくくなるかというとそうではなく、逆に表現する側、受け取る側双方が、三次元世界の表現の制限をはるかに超えたものを自在にやり取りできるという自由を獲得しているのです。
「日本人は非常にテレパシックな会話をする民族である」ということを、在る存在が言っていたのが印象に残っているのですが、主語を省略するとか察して動く、空気を読むなどはまさにそういうことなのでしょう。
近年では、そうした日本独特のコミュニケーション文化が「面倒臭い」とか言われて弊害の面が強調されることが多いのかもしれませんが、実はこうした繊細なレベルを認識する意識の特性が、自分たちが生きている世界に対して向けられたとき、そこには全く違った次元の世界が広がって見えるのではないかと思うのです。
昔の人は、確かに現代人のように行動範囲は広くはなかったかもしれませんが、今の私たちが認識するよりもずっと、「水平方向に深く」この世界を認識していたのではないだろうか、とそんなことを思うわけです。
そんな意識で改めてこの世界を見てみたとき、どうしてこれがこんなところにあるのかとか、なぜ昔の人はそんな行動をしたのかとかいったことの理由も、何かわかってくることがあるかもしれません。
今の私たちには見えないものが、彼らには明らかに見えていたのです。見る人だけが見ることのできる、秘密の扉のようなものが、今この瞬間、私たちが生きている世界には、たくさんあるのだろうと思います。
ただ、それを見るにはほんの少し意識の使い方を変えるだけで、その扉を開けるカギは、ただ私たちの意識の在り方のみであるというような。
もちろん、そうした仕掛けを作った人たちには、どんな人がその扉をくぐるのかも、明確に分かっていたでしょう。
何だかロマンですね!
取り留めないですが、今日はこんな感じで。