感情解放のワークでしばしば見かける光景なのですが、「早く楽になりたいので、苦しいことはさっさと済ませて先に行こう」とするあまり、気づいて対処しなければならないところに気づけず、結果、身動きが取れなくなってワークが停滞しているというケースがあります。
たとえば、とても深い痛みの感情があることに気づいたけれど、本当はそれを受け止めることを恐がっているというようなとき、恐がっていてはワークが進まず、苦しみが長引くことになると思うので、「恐がっている自分」を抑圧することがあります。
すると、顕在意識レベルではアクセルをふかして何とか先に行こうとしますが、抑圧された怯える自分は潜在意識レベルできつくブレーキを踏んでいる状態になって、どうにもワークは膠着状態になってしまうのです。
怯えるが故に先に進めないというのは、確かに楽になりたい自分に取っては「都合が悪い」状態でしょう。けれど、逆説的ではありますが、その「都合が悪い要素」に丁寧に向き合っていくことでのみ、開く扉があるのです。
「怯える自分」の他にも、「できない自分」「分からない自分」などといった側面もしばしば拒絶される要素ですが、私たちには多かれ少なかれ、できなかったり分からなかったりしたことで、怒られたり責められたりと、嫌な体験をしてきていると思います。
これが故に、できないことや分からないことは「いけないこと」なのだという刷り込みが骨の髄までしっかりとしみ込んでいる、と言っても過言ではないでしょう。
こうしたジャッジメントを持ってワークをして、できなかったり分からないという状況になったとき、強烈にそれを拒絶、抑圧、封印するという行動パターンが発動してしまうことがよくあります。
頭ではそれでも問題ないことは知っていたとしても、無意識のところでは、しっかり「ダメだ!」とブロックしているのですね。そして、拒絶している自分にすら気づけなかったりします。
身体の中に「気持ちのカケラ」の感覚を捉えて、それと対話しようとするけれどちっとも分からないというような場合、どうぞ「分からない・できない自分」を許してあげてください。
中には、そういう自分にとてつもなく深い失望を感じる方もあるほどです。
けれど、できなくて混乱し、怯え切っている自分を切り捨てるのではなく、どうぞ寄り添ってあげてください。そして、そんな自分を責め裁くのではなく、この気持ちのカケラ君が動けるように、手を貸してあげてください。
ワークでは、ひとつひとつのプロセスを厳密にきちんとできているかを確かめながら進めます。それは、できていない自分を責め裁くためではなくて、できずにつまづいている自分に手を差し伸べるためにそうするのです。
できないでいるにはできないなりの事情があるのであり、それを責めたり切り捨てたところで、何の意味もありません。理想に程遠い自分を見て幻滅するから見ないというのでは、いつまでも理想に程遠い自分から卒業できないでしょう。
さっさと先に進めて楽になりたいから落ちこぼれは切り捨てる、ということを自分の内側でやっていたとしたら、あなたは誰かにそのように切り捨てられる状況を引き寄せてしまう可能性もあります。
ただでさえ心細い状況の上に見捨てられたと感じることは、さらに深い絶望を生むでしょう。その絶望感は、あなたに見捨てられた自身の気持ちのカケラが感じている絶望とイコールです。
自身のあらゆる側面に慈しみを持って、すくい上げて行ってください。
ワークは頭で分かっているだけではダメで、どれだけ自分を受け止めることを実践したかが全てだと繰り返しお伝えしてきていますが、頭で理解することと、実践することでは全く違ったスキルが必要です。
ところがこの部分がしばしば一緒くたにされていて、頭で分かっているのだからできるはず、できていると勘違いしてしまうことが多いのではないかと思います。
例えて言うなら、「頭で分かる」のは建物を建てるのに設計図を引く能力で、「実践」は現場で実際に作業をする時の能力と言えるでしょうか。
いくら机上で設計ができても、現場ではそれを形にしていくには様々な職人さんたちの能力が必要です。
設計士の人にコンクリを打ったり木材を精密に加工したりといった技術が必ずしもあるかというと、そうではないということを思っていただくと、分かりやすいかと思います。
この辺りを厳密にチェックしながら、今自分に何ができて何ができないのかを認識し、必要なところに必要な手を差し伸べられるように、自身に愛のある関心を向け続けましょう。