ミッションに関する考察が続きます。昨日の遠隔ヒーリングは、個人的、かつかなりマニアックな私自身に起こった気づきがきっかけだったこともあり、当初の予想ではごく限られた方のお申込みになるかなと思っていたのですが、蓋を開けてみれば、いつもより多くの方々からのお申込みがありました。
それだけ、自身の魂の原点に返って願いを生きていきたいと真摯に思っていらっしゃる方があったということに、ある種の感動を覚えます。
ミッションという言葉に関して、おそらく少なくない方々の中に、それに対しての恐れや一通りでない感情があるのではないかと思います。
かつて、本当に使命感に燃えてそれを生きた人ほど、傷つくことも多かっただろうし、人知れずミッションの中で命を落として行ったり、あるいはその重さに潰れた人生もあったかもしれません。
私自身の魂の中にも、ミッションの重さに耐えきれずに自殺した人生や、誰にも知られずにミッションの中で死んでいった人生の記憶もあり、深い絶望感や虚しさ、無力感などがあったりします。
正直なところ、私はまだこれらを克服したわけではありません。私の奥深いところには未だ、そうした無念さや深い悲しみが在ることに気づいています。
これまで、どうにかしてこれを癒そうとあらゆる手を尽くして格闘してきましたが、今はもうこのままでいいと思っています。すべてを持ったまま、この在りのままの私を神に委ねていけばいいと。
私のミッションが神との契約であるならば、これを癒せるのは神しかおられない。そう思うからです。
そして、誰にも知られていなくても、神は私のすべてをご存知であり、私自身が忘れてしまっている祈りの言葉の一言一句まで、神は覚えておられると、確かに知っています。私はそこに、限りない恩寵を感じます。
いつだったかリトリートのとき、レナードはこう言いました。
「そのままでいいから、こちら側に来なさい」と。
どんな文脈の中でこの言葉を言ったのかは全く覚えていないのですが、このフレーズだけは印象に残っていて、たびたび思い出されます。
私たちは、「完璧な存在」になってから神にまみえようとしますが、そんなことをする必要など全くないのです。今のこの自分のまま、「あちら側」に行けばいいだけです。
人間の契約は、裏切られたり忘れられたり、ということがしばしば起こりますが、神との契約は絶対です。そしてその神の計画はあまりにも深遠であり、私たち人間の意識でははかり知ることはできません。
故に、人間目線で見た善悪や常識などに縛られていると、確かに見えてこないものもあるし、同意できないこともあるでしょう。
そういうときほど、人間としての恐怖や常識の枠組みを超えて、意識をどこにチューニングしているか、ということが重要になってきます。
私自身、軽やかに自己実現をしている人を見ると、しばしば羨ましい思いが湧いてくることもあるのですが、他の人が難なくできていることが自分にはどうしてもできず、気の遠くなるような回り道をしているように感じることもあります。
けれど、人それぞれに背景があるので、私は自身の背景を背負っていくしかありません。
かつて光り輝くような勇敢な戦士だった人が、今世では見る影もないほどの臆病者になって、思うに任せない人生の中で悶々としているのを見ることが、しばしばあります。
ただ見えている部分だけを見て、そのことを言うことはできません。そうなるにはなるだけの、言葉に言い尽くせないようなプロセスがあったのであり、誰にそれを責めることができるでしょうか。
それを責める人の中のどれだけが、かつてのその人ほどの勇者たりえるでしょうか。
そう思うとき、イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉が思い出されます。
誰もが畏敬の念を抱かざるを得ないほどの勇者だった魂ほど、ボロボロに傷ついていることが多いのは、それだけの熾烈な戦いの歴史があったということの証しです。
傷ついた勇者よ。あなたは自分を恥じることは無い。
そんなメッセージがやってきます。
在るがままの自分であれ。
神はみなご存知である。
今、再び立ち上がろうとしている勇者たちへ。