ここのところ、先日の「愛のコード」に引き続き、パラパラと色々な気づきが来ていて、それについてどう消化・昇華させていくのか、考察を重ねています。
自分の中に埋め込まれている「愛のコード」に気づいてから、そのコードが活性化しているようで、もともと弱かったグラウンディングがぐっと深くなっているのを感じます。
様々な現実のストーリーの中で示されるサインは特に魅惑的で興味深く、ともすればそれに飲み込まれてマインドを彷徨ってしまうことになります。
だからマインドが興味を惹かれそうな流れになると、いつもどこかでプレゼンスとのバランスに気を揉む自分がいるのですが、ストーリーから出てくるサインの中にも、今この瞬間の自分を知る手がかりとなるものが確かにあるので、プレゼンスをベースにしながら、けれども注意深くストーリーも楽しむようにしています。
この「愛のコード」は色々と使い道があるようで、昨日もあれにもこれにも使える、と新しいおもちゃを手に入れた子供のようになっていましたが、ただの癒しのツールに留まらず、自分のルーツを知るカギでもあり個を超えたものの歴史であり、実はもっと深遠な領域を開くゲートでもあるような気がします。
まぁ、最善のタイミングでおいおい触れていくことになるだろうと思っています。
それとともに、「水のコード」というキーワードもやって来ていて、調べていくとなかなかに面白そうな流れがありました。
そう言えば、「愛のコード」を呼び覚ましたとある神社に去年、仲間とともに通っていた時期にも、「水に関する秘密」のメッセージやサインが降りてきていました。
「水」って、私たちが触れない日はないほど身近な存在ですが、実は私たちの多くはその存在のほんの上っ面しか認識しておらず、目の前にありながら、その秘密には触れられていません。
この「水のコード」にも、再び意識を向けていこうと思います。
ほんのちょっとした意識の向け方の違いで、水のエネルギーを励起させることも可能で、これを身体の中の水分に対しても行うことができたので、きっと様々な体調不良などにも有効なんじゃないかと、いま自分の身体で試しているところです。
これまで、水に対してエネルギーを転写したりチャージしたりということはやったことはありますが、水そのもののコードに触れるというのは初めてなので、なかなか興味深いです。
上手くいったら、今度の4月11日の瞑想会で誘導してみようと思います。
人の心にせよ物質にせよ、結局どのレベルからそれに向き合い、どんな領域を認識しているかで随分と捉え方も、それによって起こってくることも違ってきます。
今回、最初に示された「愛のコード」は、意識の領域を広げていく旅において、私にとってはアンカーのような役割も果たしているような気がします。
スピリチュアルの深遠で広大な領域を旅するとき、そのやり方は人によって様々ですが、一気に軽やかな光の領域まで広げてしまう人もあります。
けれど私はそういうやり方にはあまり興味が無くて、最も重く濃密なエネルギーのレベルから離れることなく、深遠な光の領域を同時に体現したいという願いが常にあります。
これは学校でどんな勉強がしてみたいのか、というほどの単なる志向と資質の問題だと思うのですが、私の興味はどうしても、深い闇の中で鮮烈な光を見ることに向いてしまいます。
そんな私にとって、「愛のコード」は、重く濃密なエネルギーの世界に打ち込まれた揺るぎなき楔であり柱なのです。
「楔」という字は「木」に「契」と書きますが、まさにそれは契約の柱です。それを認識する者にとっては、とてもとても深い意味があります。
これによって、広大深遠な領域の極と極を、自身を見失うことなく安定して旅することができると、私は感じています。
よく、「自分の使命は何か?」と問う人がありますが、使命に生きることで、自分自身の価値を見出そうとする人がいる一方、使命の重さの中で潰れていく人生も少なくありません。
本当に魂が決めてきた役目を全うしようとするとき、ただ使命という言葉によって湧き起こる高揚感だけでは、折れてしまうことがあるような気がします。
みなさんそれぞれに、自身の内にまごうことなく「愛の楔」を見出すことが不可欠とさえ言えるのではないかと、個人的には思います。
自身が揺るぎなく愛に溶け込んで、その愛の発露が使命なのであって、使命と自分が分離している状態では、役割の重さの中で疲弊し、潰れてしまうでしょう。
確かに、使命に生きれば自身の生き生きとした価値を感じることができるでしょう。けれどそれは、使命を生きるからそうなのではなく、自身が愛そのものの体現であるからこそ、そうなのです。
今生の使命を全うしたいと思うのなら、自身の内にあるこの「圧倒的な愛」を見出すことは、とても大切なことだと思います。