プレゼンスでいるためには、「今この瞬間」を何よりも優先するという選択が不可欠です。けれど、これがなかなかできないのですよね。「今この瞬間」に居たからって、目の前に山積する問題が今すぐ解決するわけじゃないのだから、とにかく動かなくっちゃ!と思ってしまうのです。
が、ここをこらえて「今この瞬間」を優先できたとき、人生の中で何かが変わって行って、不思議と色々な導きがやってきたりするのです。
頭でこのことがどれだけ分かっていても、ついついジタバタしてしまうのが私たちの性というもの。だから丁寧で注意深い実践が必要になってきます。
今日も、内なる神に呼びかけながら、できるだけ神とともに在ることを意識し続けていました。
もちろん、色々仕事をしているときは必ずしもそうできているわけではないのですが、これまで一日に5分とできていなかったものが10分になれば、それだけでも2倍ですから、レベルの低い話と侮らずに意識を向け続けることをひたすら実践しています。
実際、内なる神とともに在ることは、とても心地よい状態になることもありますが、そういう状態というばかりでもないので、私にとっては「それでも神とともに在ることを選ぶのか」と常に問われているような気がします。
そんなことを感じていると、プレゼンスに在るというのは、何かメリットがあるからそうするという類のものではないのだろうな、と改めて思います。
多くの人は悟りや目覚めを、苦しみからの解放として捉えています。けれど、目覚めを経験した様々な人の著作などを見ると、確かに人生は劇的にその意味合いを変えますが、目覚めても相変わらず様々な喪失や病気、離婚などが起こっていたりします。
ただ、その体験の仕方が変わるというのはみな口をそろえて証言しているところではありますが、私たちの多くが想像している、目覚めればすべてがばら色になって苦しいことは起こらなくなるというようなものではないようです。
きっとそれは、また別のレベルでの話なのでしょう。
となると、「それでもなぜプレゼンスを選択するのか」という命題に戻ってきます。メリットがあるから選択するのではないとすると、なぜなのでしょう?
ここで、「え?メリットがないならいらないや」となる人は、プレゼンスを人生の最優先事項にすることはないでしょう。
レナードは、そこに人生の真実があるからだと言いますが、私は言葉ではその理由をうまく言い表すことができません。正直、私には人生の真実なんてよくわかりませんから。
ただ、自分でもよくは分からないけれど、抗いがたく私の意識はその方向へと向けられ、こんなにもできないことの連続であるにもかかわらず、違う方向へ逃げてしまうことができないのです。
それを求める人それぞれにプレゼンスを求める動機は無数にあるでしょうが、最終的には言葉ではないところで何か強烈に吸引される力を感じているものなのではないかと思います。
これまで自分と向き合い続けて来て思うのは、自分と向き合うことは、すなわち内なる神と対話することとイコールであったということです。
自身と適切なコミュニケーションが取れていなければ、内なる神との対話はできません。
しばしば、私は神と向き合うことが非常に辛くなるときがあるのですが、そういう時は必ず自分自身とも分離しています。とても自身の気持ちに触れることができていない状態になっているのですね。
昨日は、神と対話しながら「あなたとともに在ることはとても苦しいです。けれど、私はあなたと在ることを選びます」と言いながら、その苦しみを受け止めていました。
しばらくそうしていると、何かが自分の中で変化していくのが分かりました。少しずつ、少しずつですね。
古来、古今東西の多くの聖職者たちは、「神学」などで神を理論的に知ろうとして試みてきました。私は全くの門外漢ですが、神を学問的に知ることは、不可能な試みだろうとは思います。
神学という学問は神という概念についての定義づけの試みであって、神の直接体験とは全く別のものでしょう。求めるべきものは、神の概念についての知識なのではなく、神に触れる実体験です。
私たちは誰しもそれが可能であり、そして導きはあるにせよ、それは個人的な体験だろうと思います。一人一人が直接、神に触れるのが当然であり、間に何者も挟む必要はないし、挟むのは本来の形ではありません。
自分自身で神の声を聞けるように。そのためには、自身との真摯な対話を怠らないことは、最低条件だろうと思います。
ここまで自身と分離し、神と断絶してしまうまでに深くなった溝や厚い壁を取り払うときに、自分で作り上げたそれらを解体する作業は人それぞれの道のりがあるでしょう。
隣を見て誰のやり方が良いとか悪いとかではなく、唯一無二の自身の歩みを慈しみながら進めばいいと思います。