最近、日課でやっている朝のジャパ(マントラを繰り返し唱える修法)とヨガのいくつかのポーズ、そして呼吸法のときに、「内なる神」とともに在ることを意識するようにしています。
いつもはマントラを唱えていてもポーズをとっていても、どこか意識が散漫で違うことを考えていたりすることも多いので、基本的なところを大事にする原点に戻ってみようと思ったのでした。
マントラは基本的に神様の名を唱えているわけなので、これまではそれぞれのマントラの神様の姿をイメージして見たり、そのエネルギーに意識の波長を合わせるようにして見たりしていたのですが、今度はただ自身の深奥にいます神にのみ意識するようにしたのです。
この「内なる神」は、以前セミナーでレナードが誘導する瞑想の中で出会った神で、本当に自分の中にリアルな神がいたのだということを感じた体験でした。
その神が、今この瞬間も私の中に居ることを確かめるようにして、マントラの一つ一つ、ポーズのあらゆる瞬間に、そして一呼吸一呼吸、それとともに在るようにしていきます。
たまに、あまりに意識しすぎて特定の状態を探してしまうときもありますが、神とともに在るときは、世界の次元関わるような感じがします。
頭で分かっているけれど雑にしてしまってできていないことを、丁寧にやって行く瞬間を、日常の中で増やして行こうと思いました。
そんなことを思っていたら、ふとたまに行くあるお店のトイレに書かれているある標語を思い出しました。そのトイレは従業員さんも共同で使うので、社員に向けて書かれた標語でもあるのですが、「凡事徹底」というものです。
「当たり前のことを当たり前にする」というのは、結構当たり前ではないのですよね。
多くの人はたまにできる派手なスタンドプレーの方に目を奪われがちですが、平凡なことを間違いなく必ずできることの方が、実は何倍も大事だったりします。
それが極まれると、常人にはとても真似できない技術をいとも簡単に当たり前のようにできるようになっていたりするのです。たとえば、職人さんの仕事なんかはまさにそれですよね。
凡事を侮らずに確実にできるように、というのは、本当におろそかにしていることだな、と思いました。
「内なる神とともに在る」と意識しても、すぐにはまだピタッと定まらないし、数秒で意識がぼやけたり、違うところに行ってしまったりしているし。まだまだだな、と思うのと同時にそれが伸びしろ!と思うようにしています。(^^)
日々やることがたくさんあって、追われるように過ごしていると、こうして本当は大切なはずのものにしっかり意識を合わせて生きるということがなかなかに難しくなってしまいます。
特に朝は、日課が終わればばたばたと一日が流れていくので、マントラを唱えながらも早く早くと流してしまうことも多くありました。これでは一体何のためにやっているのだかわかりません。
本当に大切なものとともに在る、というのは、実はとても贅沢な過ごし方でもあるのですね。
神とともに在る時間でなくても、人によってそれは幼い子供とともに過ごす時間かもしれませんし、大好きなパートナーとともに在る時間かもしれません。
けれど、身体はここに居ても、心がどこかを彷徨ってここに居ないのであれば、それはともに過ごしているとは言えないでしょう。
ここに、すれ違いや心の断絶が生まれます。自分自身との関係においてもそれは言えますし、もちろん神に対しても誰に対しても同じです。
誰かとの関係性において、伝わらない、かみ合わない、分かり合えない、ともに居ない淋しさや虚しさを感じるのなら、まず自分が自身とともに在ることを実践するのが先決です。
最近、ある習い事の先生に対して私が感じていたのはまさにこの部分でもあり、先生は私の現状を全く理解しようとせずに私には不可能とも思える要求を突き付けてくる、と思っていたので、私が自身の状態を全く理解していないということなのでしょう。
いつの間にか、私は理想ばかりを追い求めるようになっていたのかもしれません。今一度、自分自身の原点に返ろうと思います。
焦らず、先を急ぐよりも大切にするべきはずのことを、きちんと大切にする実践を優先すること。これまで、なかなかこれができていなかったのですね。
ふと思ったのですが、これが「時間に追われる生き方」から、「時間を自ら創造して行く生き方」へのシフトなのかもしれません。
何を人生の優先事項にするのか。瞬間瞬間、問うて行きます。