自分を否定する言葉を言ったり思いを持つだけでも、私たちの心はとても委縮し、生命力が削がれます。日頃、何気なくそんな思いを繰り返し持ってしまっている人も、中には少なくないのではないかと思うのですが、ほんの少しの気付きで方向転換するだけで、随分気分が楽になるものです。
私自身もそういう傾向がまだまだあるのですが、足りないところ、自分にできないところを見つけては、どうしてこんなことができないのだろうと悲しくなることもしばしばあります。
あまりにもできなさ過ぎて、けれども他の人は何の苦も無くさらっとできているところを見ると、自分はどこか悪いのではないかと本気で心配することすらあります。
けれど、そんな私でも逆の立場になる分野のこともあり、得意なこともあれば不得手なこともあるというごく当たり前のことに一喜一憂する自分に、やれやれと思う今日この頃です。
苦手なことというのは、強烈にブロックが入っている分野のことでもあるので、ブレーキをぎゅ~っと踏みしめながらアクセルを一生懸命ふかしている状態なのが、自分でも良く分かります。
これまでにも色々取り組んでは来ているのですけれどね、一番最後(?)まで残しておいた、「とっておきの課題」なのです。(^^; 今年はこの辺りをクリアすることが目標ですね。
誰しも、できないこともあれば、できることもあります。できないことを責めるのではなくて、何かができる自分を大切にしてあげることも、自分を愛することの一つだと思います。
自分を認めることは、自分自身のセンタリングを取り戻すことにもつながりますので、自分を見失っているな、バランスが崩れていると感じたときは、好きなことに戻ってくると良い場合があります。
得意なことや才能と、苦手なことは、しばしば人生のテーマに深く結びついているものです。双方ともに、それがゆえに苦しむこともある一方で、深い喜びに導くカギだったりもします。
長い長い魂の旅路の中で、好きなことだけではなく、苦手で嫌いなことも、実は何度も経験していて良く知っていることだったりということもあります。
積み重ねがあるはずなのになぜ苦手で嫌いなのか。単純に経験が少ないから苦手というケースもあるでしょうが、意外に多いのは、それにまつわるとても痛い経験があるので強烈にブロックしているというケースです。
お金なんかは多いと思いますし、たとえば私の例で言えば、刀剣なんかが全く苦手というか、不自然なくらいに興味がすっぽり抜け落ちていて、見ることもあまりしないというのがあります。
別に恐くて見られないというのではないのですが、美術品や工芸品が好きで昔はよく博物館や美術館にも行っていたのに、隣の部屋で刀剣の企画展をやっていても素通りしていくという、私にしてはあり得ない行動に、自分でも不思議な感じがしていました。
後にその理由が何となく分かったのは、武士などの過去世も結構あるので、実際にそうしたものを握ってそれなりに使っていたときの経験があるのだということでした。
なんせ、ヒーリングの世界に入って最初に見た自身の過去世は、血みどろになりながら山中を逃げていく落ち武者でしたから。(^^;
そして多分、同時代にたしなんでいた茶の湯も、今世ではどうしても踏み入れられない何かがある分野です。まぁこの辺りは日常生活に支障がないので、放置している分野ではあります。
積み重ねてきたギフトもある一方で、負の遺産もあるのでブロックがかかっているということもあるのですね。
そのような、固く封印した扉の前に立つときは、自分でも不思議なくらいに混乱したりさっぱり感覚が掴めなくなったりすることがあります。
いつもの要領でさらっと進めていけるときもあれば、二重三重にも封印がかけられているように感じることさえありますが、そういうときは何か大きな自分のスタンスの変化を伴うときなので、その扉を開けた後に起こることに対して、自分がちゃんと受け止める意思があるのかどうかを確認します。
ただ解放したい、というだけではダメなことがあるんですね。
解放が起これば、それまでの自分の在り方のバランスが変わります。良くワークの最中に、「自分が変わってしまうこと」を恐れる言葉が聞かれますが、変わってしまってもいいのかどうか、というところへの同意が必要なのです。
誰しも楽になりたいですから、解放はされたいと願いますが、一方で自分が変わってしまうことに対しては不可ということが意外に多くあって、決してこれらはイコールではないのだということを思い知らされます。
苦手なことに向き合いながら、自分を否定せずに眠っている可能性の源泉を稼動させるために、今深く自身の在り方を問うています。